ブラックホール研究 : 茨城学習センター所長 横沢 正芳先生

投稿日: 2014/11/18 2:05:53

目の前に心躍るできごとが出現し、それに没頭できることは誠に幸せなことである。1973年の夏、雪渓が残る白馬岳の麓の公民館の一室で、一人の大学院生が、ブラックホールに関する論文を紹介した。その論文は、1ヶ月程前に雑誌に発表されたばかりのもので私も読んでいたが、これほど早くに、しかも同じ学年(修士課程2年)の院生によって、大勢の天文学研究者の卵が集う会合で紹介されたのは驚きであった。そこは、天文学若手夏の学校と云って全国の天文学研究をめざす大学院生が年に一度総結集する場であった。総結集といっても当時は100名程度で、現状の1/5以下であった。長野県の白馬村のように、冬季にはスキー場の宿となるが夏には比較的安価に泊まれる旅館に雑魚寝で3泊4日滞在し、天文学研究の動向を熱く語り合う場であった。先の会合はその一つで、確か「星」の分科会で座長は当時博士課程2年の佐藤勝彦さんが務められていた。私も、紹介されたブラックホールの論文に興味をもっていたので、何か発言したい衝動に駆られて今からみると論文の些細な部分を批判するクレームをつけていた。この論文についての興奮は冷めやらず、分科会終了後も宿の雑魚寝の布団の上での同室の先輩と議論を続けたことを覚えている。

初のX線観測衛星「ウフル(UHURU)」: NASA提供 1970年12月12日に打ち上げられ、1973年3月まで観測し、この間に300個以上のX線天体を発見した。

1970年代始めの当時は、1970年12月にケニアの沿岸から打ち上げられたX線観測衛星「ウフル」(Uhuru;スワヒリ語で自由を意味する)によって次々とX線を放つ天体からの詳細なデータが科学誌に発表され、天文学会は大変な興奮に包まれていたときであった。天体からのX線は地球大気に吸収されるので、地上にいる者にとってX線天体は全く未知の存在であった。しかし、科学者の中には純粋に未知なる世界にチャレンジする者がいる。1962年、アメリカMITの物理学者ロッシ(Bruno Rossi)は、「自然は人間の想像を越えた姿を見せることがある。いまは大気の外に出る手段があるのだから・・・」と小さなガイガー計数管をロケットに載せて大気の外に送り出したのである。誰もが強いX線を放射する天体があるとは思っていなかった時代に、ガイガー計数管の記録は明確にその存在を示したのである。しかし、X線観測衛星が打ち上げられるまでは、観測手段はロケットや気球であったことから、観測時間が数分から数時間と限られ、X線天体の存在は分かるが観測データとしては厳しいものであった。X線観測衛星「ウフル」は、長時間にわたる観測から激しく時間変動するX線天体の詳細なデータを地上に送ってきたのである。短いもので、1秒以下から長くて数十日の周期的変動を明らかにした。また、強いX線を放射する天体は、多種多様にあることも示した。星サイズ以下の小さな点源から、数度角の広がったX線源もあることが分かった。これらのX線データから、それまで理論上の天体であった、中性子星、ブラックホールが実証的に研究することができることが分かってきたのである。数度角の広がったX線源は、超新星爆発の残骸であったり、数千個の銀河が集まる銀河団に対応することも分かってきた。X線を放つ領域は、数千万度から数億度の非常に高温なガスが集積するか、或いは、光速に近い速度を有する高エネルギー粒子が密集する状態を要求する。何れにしても、それまで可視光の望遠鏡で見てきたものとは、遙かにかけ離れた天体像を要求する。宇宙にあるガスや粒子がX線を放つ状態になるためには、非常に激しいガス運動や粒子加速機構が宇宙に存在することとなる。即ち、宇宙は激しい活動性を有する存在であることが分かってきたのである。

前述の分科会で紹介された論文は、ブラックホール周辺から放たれる高光度のX線放射の仕組みを解いたもので、後に標準理論として位置づけられることとなる原論文であった。ともかく、眼前にウフルが切り開いたX線で見える宇宙の姿は、想像を絶するものがあり、若い大学院生には強烈な刺激を与えるものであった。このとき、宿舎で議論した多くの大学院生はX線天文学の研究に進むこととなった。が、この頃の大学院生は野性的或いは遊び上手なところがあり、若手夏の学校に参加すると期間中の1日位は近くの山に登り夏のアルプスを満喫していた。このときも、確か、当時在籍していた北大の研究室仲間と白馬近郊で遊んだ後、北海道に帰り、再び積丹半島の突端の人里離れた海岸端でキャンプを張り、北海道の冷たい海で泳いで遊んだことを鮮明に覚えている。これから研究を始めようとしていた時に、ウフルが詳細なX線データを送ってきたことはラッキーなことであり、幸せなことであった。