話題・課題

砂漠化

2015/04/21 5:20 に 山口文夫 が投稿

                                 元 茨城学習センター 所長 塩見 正衞

砂漠化とは

 砂漠化は,「乾燥,半乾燥および乾性半湿潤地域における気候変動および人間活動を含むさまざまな要因によって引き起こされる土地の荒廃」と,1994年,国連で採択された「砂漠化対処条約」に定義されている.この条約では,乾燥地域を乾燥指数 (=年間降水量/年間蒸発散量) によって,表1のように分類していて,極乾燥地をのぞいた乾燥指数0.05~0.65の地域 (以下,乾燥・半乾燥地域と書く) を砂漠化問題の対象地域としている.砂漠化が進行している地域は,世界の各地にみられるが,特に大面積で進行しているのは,降水量の少ないサヘル地域,アラビア半島から中東地域,中国北部から西部にかけてである(1).砂漠は単に砂に覆われた土地を意味するのではなく,礫や岩石,粘土などに覆われた土地,塩類が集積した土地で,ある場合は,降水量が多くても土壌が荒廃し貧弱な植生で成立している土地を意味している.

1 乾燥地の呼称と分類;乾燥指数=(年間降水量)/(年間蒸発散量)

乾燥指数

0~0.05

0.05~0.2

0.2~0.5

0.5~0.65

呼 称

極乾燥地域

乾燥地域

半乾燥地域

乾性半湿潤地域

陸地面積%

7.5

12.1

17.7

9.9

小泉ほか(2000)

 


砂漠化の原因と対策

 砂漠化は,気候的な要因と人為的な要因およびその相互作用によって引き起こっている.気候的な要因による砂漠化は,大気循環や気団の発生など地球上の各地域で起こるさまざまな長期的・短期的な湿潤期と乾燥期,高温期と冷温期などの変動によって起こる.

人為的な砂漠化は,乾燥・半乾燥地域における人口増加,経済活動を優先した気候条件に不適合な農業・牧畜業の近代化が原因になってもたらされている.砂漠化が進行している土地は,全球的にみで36haにも及び,そのうち93%は放牧地,6%は降水依存の農地で,灌漑している農地は1%である.すなわち,砂漠化の影響下にある土地のほとんどは牧畜業や農業に使われている土地であるといえる.特に牧草地(自然草地)は広大な面積を有するので,先ず牧草地を取り上げる.牧草地においては,1970年代・1980年代以降,世界的に牧民の旺盛な経済活動や人口増加に対応して,面積当り放牧家畜頭数を増加させ,利益拡大を図ってきている.家畜頭数の過度な増加は,生育している植物のバイオマスの再生を抑え,植生の変化をもたらす.家畜の種類によって異なるが,家畜の好む植物種は減少し,有毒植物,とげ植物,不嗜好性植物種が増加する.また,強い放牧によって牧草地の土壌も大きな影響を受ける.地上部バイオマスが減少した表土では植物遺体が減少し,踏み固められた表土からの水分の蒸発が激しくなり,ついには,表土(A層)を喪失した裸地が斑点状に現れ,さらに裸地の占める面積は拡大していく.地下水位が高い(地表から1 m程度)土地では,蒸発量と降水量の不均衡により,土壌表面に塩類が集積し,元の土壌と植生へ回復させるのが非常に困難になる(2-1).土壌が決定的な損傷を受けていない場合でも,植生の回復には数年から20年くらいを要し,その期間は主に年降水量に依存していると考えられている.また,乾燥地でも稀に生じる多量の降水は,土壌の流失をもたらす.そこでは,等高線状にわら束を並べて,土壌の流失を防止する研究が行われている(図2-2).

1980年以降になると乾燥地・半乾燥地における牧草地の開墾が進み,高収入が得られる換金作物,トウモロコシ,ナタネ,穀類などの栽培が行われるようになった.このような栽培農業では,降水量などの気象条件がいい季節には高い収量が得られるが,干ばつ年や乾燥する季節には,表土を覆う植生が存在しない土地では激しい風食にさらされる.数年をまたずして土壌有機物を含んだ表土は喪失し,裸地化する.砂漠化を防ぐには,牧草地として維持することが重要である.一旦,耕地化された土地には,風衝(石垣や生け垣)などで囲むと,風食のレベルをある程度落とすことができる.

日本の童謡に出てくるような砂丘を形成している砂漠は,サハラ砂漠や中東,中国,オーストラリアなど5大陸のいずれにも見ることができる.その多くは,植物の生育が困難な流動砂漠であるが,過去長い期間かかって砂丘の表面が植物に覆われ,固定されている潜在的な砂漠も広い面積を有する.中国では,このような砂漠を砂地と呼んでいる.砂地では,砂丘表面の植生の破壊によって容易に流動砂漠に戻ってしまう.砂地の流動化を防ぐためには,過酷な土地利用を抑制することが第一である.流動化の兆候が見られる初期

には,流動化を防止するためのさまざまな技術が開発・利用されている.たとえば,中国では,わらを太さ20 cmくらいの棒状に束ね,1 mごとに区切って碁盤の目状に配置 (草方格) したり(図2-3),乾燥に強く長い根茎をもつ植物を移植・植林する方法などが実用化している.

植生の荒廃は,多雨・湿潤な地域でも起こっている.かって豊富な木材を生産していた森林でも,大量の伐採後に土壌が流失したところでは,とげの多い灌木類と背の高いイネ科植物に覆われ,高木からなる原植生のへの回復は長期間不可能で,植林も有効な手段とならない.このような荒廃は,中国の降水量の多い亜熱帯山岳地帯の広大な地域でみられる(図2-4).

近年,地球規模における気候変動(高温化と激しい気象変化)が乾燥・半乾燥地域の牧畜や農業生産に大きな影響を及ぼし始めているという研究発表が多い.このような現象の確証を得ることは容易ではないが,中国内蒙古自治区では過去50年間に2度以上の年平均気温の上昇が起きているという報告がある.この上昇は,中国全体の年間気温上昇0.5~1.1よりも極めて高い値であり,牧草の生産量や植生に何らかの影響を与えていると考えられる.                             



喜望岬はどうして喜望峰なのか 元 茨城学習センター所長 朝野洋一

2015/02/15 23:12 に 山口文夫 が投稿

  岬のはずが峰になっている

アフリカ大陸西南端の喜望峰(34°21S,18°30E)は、地理や世界史でおなじみの地名です。1488年、ポルトガルの航海者バルトロメウ=ディアス(1450ころ~1500)が南端部を回航し、アフリカ大陸が南極方面まで伸びているという従来の見方を変え、大陸の西の大洋(大西洋)と東の大洋(インド洋)がつながっていることを明らかにしました。この時、付近の海域は大荒れだったので嵐の岬(Cabo des Tormentas)と名付けました。しかし時のポルトガル王ジョアンⅡ世(エンリケ航海王の甥)は、インドへの航路発見を祈念し縁起の良い喜望の岬(Cabo da Boa Esperança)と改めました。その後、同じくポルトガルの航海者バスコ=ダ=ガマ(1469ころ~1524)が1497年にこの岬を回航し、アフリカ東岸に沿って、既に当地に進出していたアラビア商人達の抵抗に遭いながら北上し、翌年にカリカット付近へ到達しました。インド航路が開かれたのです。因みに南緯4050°付近の海域は、船乗りたちに「荒れ狂う40度帯(the roaring forties)と呼ばれる航海の難所です。大きな大陸のない南半球のこの緯度帯では、強い偏西風により常に波立つ海流(西風皮流)があり、大陸南端付近の海域も荒れることが多いからです。なお、 アフリカ大陸の最南端、すなわち大西洋とインド洋の境目にあたるのは、喜望の岬より東南に位置するアガラス岬(Cape Agulhas,34°50S,20°E)です。

 ところで喜望の岬の英語表記はCape of Good Hope、現地語のアフリカーンズ語ではKaap die Goeje Hoop,その基になったオランダ語ではKaap de Goede Hoop(カープ=デ=フーデ=ホープ)です。この岬は、南アフリカ共和国西ケープ州ケープタウンの南に伸びる幅20㎞、長さ53㎞のケープ半島の先端部にあります(最先端はケープポイントと呼ばれています)。この付近は海食崖で縁どられた3060mの台地状であり、高いところでもバスコ=ダ=ガマ峰の250m程度です。このような岬ですが、日本では一般に喜望峰と表記しています。英語名を併記している地図帳もあります。しかし、英語のcapeは水面に突き出た陸地という意味ですから、「岬」や「崎」とするのが妥当でしょう。一方、漢字の「峰」は山の尖った部分を言い、海に突き出たところという意味は見当たりません。では、一体どうしてこのような表記が使われているのでしょうか。因みに、中国語では好望角と表記します。角は「つの」の形をしたもの、尖ったところという意味です。

 先学の研究書や啓蒙書を見ても、特に注記もなく「喜望峰」と書かれています。例えば織田武雄著『地図の歴史』(講談社、昭和48)は、内外の代表的古地図(主に世界地図)の成立と記載内容を探検史・歴史的文化的背景などから詳しく考察している書物で、本稿でも参考にしたところが多いのですが、随所に登場するのは「喜望峰」です。capeの意味を承知しつつも、あえてこの表記に従っているのですから、識者の間では周知のことかも知れません。いろいろ調べてゆくうちに、日本における世界の地名・国名の漢字表記については、新井白石の『采覧異言』(享保101725)が大きな影響を与えたことが指摘されていました。そこで、このあたりから検討してみることにしました。

 

  少ない情報が錯綜して混乱?

 江戸時代の学者・政治家であった新井白石(16571725)は、キリシタン禁制下に屋久島に潜入上陸して捕えられたイタリア人宣教師ショバンニ=シドッチ(?~1714)を幕命により取調べ、正徳31713)年に将軍への報告書『采覧異言』を提出しました。これはカナ交じりの漢文で書かれたもので、江戸時代を代表する世界地誌書と言われています。刊行はされませんでしたが、多くの筆写本がつくられ、広く知識人に読まれたそうです。なお、白石は『采覧異言』とともに国文による『西洋紀聞』(1715年頃)を書いています。これはシドッチへの尋問結果やオランダ商館長からの話などをまとめて一層詳しい内容となっていますが、キリシタン関係の記述があるため永く私蔵されており、1793年になって幕府へ提出された後、1807年に公にされました。

白石は、世界地図を指し示しながら通詞を介して尋問し、報告書作成に際しては地図類その他の既知の知識との異同を考察しています。もっとも参考にした世界地図は、アフリカ南端を回ってインド経由で中国に渡ったイエズス会士マテオ=リッチ(15521610)が北京で刊行した『坤與万国全図』(1602)です。これは6枚を合わせると縦1.79m、横4.14mの大きな世界全図になるもので、漢語による地名・国名,地球の形状などに関する説明があり、地図と地理書としての性格を併せ持っています。基になったのが1570年代にヨーロッパで作成された数種類の地図であるため記載内容はかなり古くてなっていましたが、外国語を学ぶ機会の少なかった江戸時代の人々にとって漢字表記の世界地図は重要な情報源であるため長く使われたそうです。日本に2組、バチカンに1組現存します。

 さて、『采覧異言』におけるアフリカについての記述を拾うと次のようです。まずアフリカは、「南至カアプトボ子スベイ.北與エウローハ接.」とあり、南端の「カアプトボユスペイ 意呼カアボ テ ボ子イスエンサ 和呼カアボ テ ホスフランス 又名カアプ」としています。岬にあたるカアプ・カアボや前置詞のト・テは分かりますが、グッドホープにあたる部分は類推が難しいような表記です。恐らくオランダ語の通詞だったでしょうから、慣れない外国語のカタカナ表記には手こずったことでしょう。ここで新井白石は、坤與万国全図では「利未亜之南至大浪山,北至地中海」となっていることや別の地図や伝聞では南に大嵐やタイラの名があること、地名か国名か不明など西洋人の説には異同があり疑問が多いとしています。しかし、尋問結果としてカアプトホユスペイ(曷叭布刺(カアプトホユスベイ))は「地在利未亜之南、其北連大山、餘三面皆際大海」とし、野生動物が多いことや近年オランダ人が航海の経由地として併得したことなどを記述しています。なお、『西洋紀聞』では、当地を「イタリヤの語にカアボテボ子イスフランサといひヲヽランド語にカアボテホースフランスともカアブともいふ。漢繹未詳。其地は、すなわち漢に大浪山角(オランシャンコ)と志るせし所也。按ずるに萬国坤與図の仙労冷祖(スエンラウレヌツウ)アリ、カアブの音転じ訛りて仙労冷祖島(注:マダガスカル島)の地名とするに似たり。」としています。カアボ云々については漢語の意味は分からないが、大浪山角の名がある場所であるとしています。角には岬の意味がありますが、詳述はありません。「按ずるに」以下はマダガスカル島の一部ではないかとの誤解によるものと思われます。

このように、『采覧異言』では、アフリカ大陸の南部にオランダ人がカアプと呼んでいる地方があることは認めていますが、カアプの意味やその場所、既に知られていた大浪山・大嵐・タイラの名称との関係ははっきりしません。混乱の理由として考えられるのは、地図の情報と尋問の結果との時間的ずれが大きいことです。すなわち、オランダ東インド会社がケープタウンの地に航海の中継拠点を置いたのは1652年であり、マテオリッチの地図が作成された時代(1602)、その基となった地図類の作成された時代(1570年代)にはカアプ植民地はなかったのです。一方、後に明らかになることですが、タイラ(大浪山、大嵐)はケープタウンの背後にそびえるテーブルマウンテン(1086m)のことであり、既に1503年にポルトガル人が登頂し命名しているのです。海上からもよく見えるこの山は、航海者にとって恐らく喜望の岬よりも顕著なランドマークとして早くから地図に記載されてきたのです。近くのケープ湾が大陸南端部における重要な停泊地であったことも関与していると思われます。さらに、本来は岬の呼称であるものが植民地の名前にもなっていることも理解を難しくしていたのかも知れません。

 

  テーブル山と喜望の岬の混同は誤訳から?

 次に、『訂正増訳 采覧異言』(享和21802)を見ることにします。この書物は、土浦藩士山村昌永(才助)(17701827)が和漢洋の書籍・地図など1000点以上を参照して『采覧異言』を増補改訂した大部のもので、蘭学の師である大槻玄沢(17571827)が参閲しています。昌永は「大嵐(タイラ)ハ西語“タフラ”」即和蘭ニ云“タアフルベルグ”ニテ漢ニ大浪山又喜望峯ト云者即是ナリ」とし、ケープタウンの背後にそびえるテーブルマウンテンが喜望峰であるとしています。この混同がどうして起こったのかは、オランダ語のカアプ(Kaap)の翻訳にあります。『采覧異言』ではアフリカの西側の海をインスレテカポヘルとしていますが、昌永はこれを訂正し、インスレは島、テは助辞、カポは峯、ヘルはヴェルデで緑の意味であるとし、漢字では緑峯島とするのが正しいとしています。すなわち現在のカーボベルデ共和国の島々です。本来のカーボヴェルデは現在のセネガル共和国の首都ダカールのあるヴェール(ベルデ)岬のことで、昌永はこれを緑峯としています。オランダ語のKaapには「低い前山」の意味があることからカポを緑の峯と訳したものと思われます。同様にして、オランダ語のKaap de Goede Hoopは喜望の峯となったと考えられます。ただし誰がいつ頃「喜望」と訳したのかは分かりません。昌永は『増訳万国伝信紀事』を引用して「(アフリカは)周囲大凡五千余里,其西ハ緑峯(カボベルデ)ニ赴テ東ハ瓦児大付峯(マタハ哇而大峯ニ作ル)ニ至ルマデ凡一千六百余里南ハ喜望峯に赴テ北ハ地中海ニ至ルマデ」と三つの岬を「峯」と表記しています。なお、今では、緑峯はヴェール(ベルデ)岬、ソマリア半島先端の瓦児大付峰はグアルダフィ岬(Cape Guardafui)またはアシール岬(Ras Asir)となっています。

 

  福澤諭吉もあえて「喜望峰」とした?

テーブルマウンテンと喜望峰の混同及び喜望「岬」を喜望「峰」と表記する状態は、明治初年に刊行された福澤諭吉の著作の一つ『頭書大全 世界国盡』(明治2年刊)でも見られます。福澤は,新しい時代の児童・婦女子の教養のためにと英米の地理書を翻訳し、世界地誌を主体とした本書を刊行しました。本文は七五調の簡潔な文体として覚えやすくし、達筆な行書体の漢字仮名交じり文は手習いの手本になることを意図したものでした。また、簡潔な本文を補うため、ページ上部の余白に細かな注記(頭書(とうしょ))をし、不鮮明なものもあるが多くの挿絵を入れています。福澤諭吉著作集の解説によれば、この本は明治16年に教科書の認可制度発足するまで教科書として広く使われ、その後も広く流布したとあり、その影響力は極めて大きかったと考えられます。

 ここで『世界国盡』巻二 阿非利加(あふりか)州 で該当部分を引用すると次のようです(漢字は一部常用漢字に直した):「麻田糟軽(まだかすかる)」の西南(にしみなみ),阿非利加州の陸(みち)の辺(はて),西に廻れば「喜望峰」,望(のぞみ)はてなき西海(さいかい)の風に颺(ひら)めく旗影(はたかげ)は記章違(しるしたが)わぬ「英吉利(いぎりす)領」,「印度」地方へゆく船は長(なが)の海路(うみじ)の「阿多羅海(あらたかい)」(注;大西洋),越えてしばしの碇泊に旅行(たび)の鬱(うさ)をもなぐさめん.喜び望む峰(みさき)とは舟子(しゅうし)の情を汲取りて名を下(くだ)したる文字ならん.喜望峰の西のかた「発天戸地屋(はてんとちや)」(注:ホッテントットの住む土地)(省略).

ここで福澤は,喜望峰の「峰」に「みさき」と読み仮名を付しています。しかし、挿絵には「喜望峯の景」として波立つ海面に浮かぶ帆船を前景に、水平線上にケープタウンと思しき四角い建物が密集した街並み、背後にはテーブルマウンテンらしき平頂の富士山型の二つの山が描かれています。「岬」は確認できず「山峰」が強調されているような絵です。このような絵を掲げ、「峰」を「みさき」と読ませているのは理解できません。さらに疑問を増すのは、『世界国』の附録部分の記述です。英語文献の翻訳に基づいて自然地理と人文地理を簡潔に概説している中で,自然の地学(自然地理)の節において用語の定義をし,「半島(はんしま)とは三方水にして一方のみ大地に続きたるをいう」とか「岬とは海に突出(つきいで)したる陸地をいう。亜非利加の南の端に喜望峰あり、南亜米利加の端に“けいぷほふるん”あり。」と述べています。テーブルマウンテンと喜望の岬とを混同していること、峰を「みさき」と読ませていることと岬の定義とは相互に矛盾していることは明らかです。

今日、テーブルマウンテンと喜望の岬とは区別されていますが、本来「喜望岬」とすべきところは「喜望峰」のままです。また、今日、学校用教科書・地図帳などでは世界の地名や国名を可能な限り現地の読み方に従って表記(したがってカタカナ表記)することになっていますが、喜望峰については漢字表記のままです。慣用語になっているので今更訂正することもないのか、あるいはケープ=オブ=グッド=ホープ岬やグッドホープ岬では“ピンとこない”とか“しっくりしない”からなのでしょうか。

エネルギー開発と地球温暖化について    元 茨城学習センター所長 奥 達雄

2015/02/01 4:44 に 山口文夫 が投稿

東日本大震災前後の変化

2011年の東日本大震災前後でエネルギー供給の事情が大きく変わった。原発に30%近くの電気を頼っていたのが、原発事故以後次々に国内の原発が停止し、ついに20139月にはゼロになった。2014年末の時点では、約30%の電力の不足分は主に石油、天然ガス等で火力発電により補填されている。1995年頃から日本のエネルギー総消費量は横ばいになっており、2006年以降やや低下している状況である。しかし、2030年までエネルギー需要は増加の傾向にあるという予測なので、エネルギー消費量も増加してくる可能性がある。

 日本の消費エネルギーと電力量

 日本の電源の構成は資源エネルギー庁のエネルギー白書によると2013年度の総消費エネルギーは2010年度より約5%減少し、3.952x1012 kWhであり、その23.3%が電力量である。2010年度は総電力量の62%が化石燃料によるものであり、震災後の2013年度は88%が化石燃料(石油、石炭、天然ガス)によるものとなっている。現在は主に石油と天然ガスの輸入増加によって賄われている。また総供給エネルギーの90%以上を化石燃料に依存している状況である。

 

温室効果ガスの排出量

 エネルギー起源の温室効果ガス(二酸化炭素など)の排出量は2013年度の場合1,224Mtとなっており、これは全温室効果ガス排出量の約90%である。これは2010年度に比べると8.5%の増加である。このことからエネルギー起源の燃料が温暖化ガス排出の大きな原因になっているとみることができよう。もちろん温室効果ガスを排出するのはエネルギー起源以外のもの(廃棄物・工業プロセス及び製品の使用など)も10%程度あるので、これらを減らす努力も怠ってはいけない。しかし、まずは大部分を占めるエネルギー起源の化石燃料の使用を減らす工夫が必要であろう。

 

温室効果ガス排出の影響

 温室効果ガスのもたらす影響は最近マスコミでも詳しく報道されているのでよく知られている話であるが、特に影響の大きなものは温暖化により海水の温度が上昇し、陸地が失われ、人間の居住地が水没していくことである。もう一つは大きな気候変動による世界各地での天候異変による自然災害の増加であろう。現在、世界中でいろいろな対策を考え、実施しているところだが、現状を少しでも良い方向へ変えていくことは大変困難な状況である。

 

影響の具体例

 影響予測の具体例を挙げてみよう。温室効果ガス(二酸化炭素)の放出の影響については、IPCC第4次評価報告書によると、およそ次のように考えられている。1990年から2000年の間に二酸化炭素は約350ppmから370ppmへ約20ppm増加している。2100年における二酸化炭素についてはいろいろな研究を総合すると450ppmから910ppmに増加するのではないかといわれている。この場合1990年から2100年までに地上の温度が1.4から5.8℃上昇するという。その結果、海面の上昇が生じる。環境白書によると、1990年より二酸化炭素の排出量を40%減少できると仮定して、気温上昇が2100年において1.52.5℃になる。その結果、海面の上昇が1595cm見込まれるという。これを日本の場合について考えると、海面の上昇が30100cmになると、現在の砂浜の3790%が消失するという。その際、満潮位以下の場所に現在約200万人が住んでいるとのことである。世界中いたるところで類似のことが起こると考えられる。すなわち、将来、地球温暖化は人間の居住財産等の存在を脅かす原因になることが予想される。

 温室効果ガス排出を軽減する方法(1) 

  温暖化を軽減するにはどうすればよいか。それははっきりしている。温室効果ガスの排出を減らす努力をするのが最も有効である。もう一つは排出された二酸化炭素を大気中へ出さず、生物を利用するかあるいは化学的に処理する方法により、固定化する技術である。これは今後期待できる温暖化ガス軽減技術の一つであると思う。世界規模でみれば、大気中の二酸化炭素を減らすのに温室効果ガスの全排出量の約80%がエネルギー起源のものであることを考えると、エネルギー起源の温室効果ガスの排出を減らすことを考えるのが最も効果的ではないだろうか。2013年度の日本の温室効果ガス(二酸化炭素換算)の総排出量が約139500万トンあり、その約88%がエネルギー起源によるものであるという。2012年以降エネルギー起源の排出量は増加しているが、これは2011年の東日本大震災後原子力発電を停止したこと等によるものであると推察される。

 温室効果ガスを軽減する方法(2

  世界の二酸化炭素排出量は2012年のデータでは317億トンである。地球規模では日本の温暖化ガス排出量(3.9%)はそれほど大きくない。温暖化ガス排出を減らすには、現在最も多量の温室効果ガスを排出している中国(26%)をはじめ米国(16%)、EU28か国(11%)、インド(6.2%)などの積極的な協力なしには不可能であることは明らかである。日本としては、それでも様々な節電技術の開発と非化石エネルギー源、すなわち再生可能(太陽、地熱、風力、バイオマスなど)・水力・原子力などの開発の促進は重要な選択肢の一つになると思う。その中でも筆者が長年関わってきた高温ヘリウムガス冷却炉は高い安全性が最近話題になっている。選択肢の一つとして今後利用を検討する価値があると思っている。しかし、利用を検討する前に、現在日本が所有するHTTR(大洗にあるJAEAの高温工学試験研究炉)を用いて実験的に安全性を確認し、その結果を国民に示すことが前提である。

 

非化石エネルギー源(高温ガス冷却炉など)の開発促進

  国の「エネルギー基本計画」(2014411日閣議決定)によると、まず再生可能エネルギーは重要な低炭素国産エネルギー源として位置付けている。次に、原子力は運転時に温室効果ガスの排出がないことが一つの特徴であり、そのため、これを安全性の確保を大前提に重要なベースロード電源として位置付けている。原子炉の中心部に大量の黒鉛材料と炉心の冷却に不活性のヘリウムガスを利用している高温ガス冷却炉は、現在運転可能なものが日本と中国にしかない。750-950℃の高温で運転するため、高温での熱利用による水素製造等及び発電の両方が可能である。ガスタービンによる直接発電も検討されている。現在の化石燃料を用いる火力発電による電力利用を他の再生可能エネルギーによる発電や安全性の確認を終えた原子力発電等を利用していかないと大量の温暖化ガスを排出している国の排出量の低減はかなり困難であるように思う。高温ガス炉に関する日本の技術力は高いが、今後これを維持し、これを高温工学利用技術として内外の産業界で利用展開されることを期待している。近隣の東アジアの国では多くの高温ガス炉を作り、増加するエネルギー需要と温暖化ガス排出の軽減と両方の目的を達成しようとしている。

 むすび

 現状では、再生可能エネルギー源(太陽・地熱・風力エネルギーほか)の利用の拡大も望まれるところだが、これは大電力の供給には不向きである。安定供給性に不安があることはよく知られている。要はその用途・地域などに適したエネルギー源の選択が大事ではないかと思う。地球上のエネルギー源は何であれ大事に使っていかないと未来の子孫に対して不安の種を残すことになる。原子力エネルギーも人間が開発した大事なエネルギー源であり、場所を選んで安全性のより高いものを開発して利用すべきものと考える。放射能、放射線は地球・宇宙の内蔵するエネルギー源の一つであるとともに、医学上、病気の検査・治療に役立っており、人間にとって有用な存在となっている。

 人間の生み出した文明の利器あるいは発見したものは、功罪がありいいことばかりではない。原発や放射線・放射能もその一つである。利点をうまく利用し、欠点を減らす工夫をするのが人間の知恵というものではないか。要するにいろいろなエネルギー源を適切に組み合わせて利用していき、温暖化ガスの排出を最小にするように地球上の人間ができる限り努力し、将来の人間の持続性に対する不安を解消するようにしたいものである。

 

(参考文献及び資料)

*文部科学省HP

*産業経済省資源エネルギー庁HP:エネルギー白書

*環境省HP:環境白書

*日本原子力研究開発機構(JAEAHP

人への衝突を激減緩和する「自動ブレーキ + 外部作動型エアバッグ」 システム

2015/01/21 23:24 に 山口文夫 が投稿   [ 2015/01/21 23:32 に更新しました ]

これ以上暴走による犠牲者を出さないためにも !!

人への衝突を激減緩和する、センサフュージョン(複数センサ)による「自動ブレーキ + 外部作動型エアバッグ」 システムの早急な実用化を

茨城学習センター所長 白石昌武

 

近年発生した集団登校中の小学校の列に軽乗用車が暴走し多数の死傷者を出した事故、バスを待つ保護者を含む児童の列に軽ワゴン車が暴走して死傷者を出した事故、また脱法ハーブに起因する死傷事故等、加害者はこれからの日本を担う若者のみならず高齢者も含まれている。“居眠り運転をしていた”、“ボーとしていた”では済まされない問題である。このような形で人の命が奪われる交通事故には今更ながら憤りを禁じ得ない。と同時にこれから本格的な高齢者社会に直面するに当たり、運動能力、判断能力共に衰えつつある高齢者が加害者、被害者のいずれにもなり得る交通事故が益々増えることは明白である。これらの深刻かつ逼迫した状況を考えると、人を交通災害からアクテイブに守るための何らかの具体的対応法に早急に取り組む必要があることを痛感する。現在、前方の障害物に衝突する直前で自動的にブレーキが作動するシステムが実用化されている。しかし、

 

“雨天時や降雪時に自動ブレーキが作動し、車がスリップした場合どうなるだろうか?

 

前方の障害物が人であった場合、結果は明白である。残念ながら現在実用化されている自動ブレーキシステムでは対応不可能である“

 

事故の被害を軽減する「衝突安全」について、対人を重視したシステムを構築するにはソフトウエアとハードウエアの両面からの対応が必要である。筆者は以前茨城大学工学部に勤務していた当時、民間会社と共同で世界に先駆けて外部作動型エアバッグを開発した。車体の前、後バンパー及び両サイドドア内側にエアバッグを内蔵し(イメージ図1)、危険衝突と判断した瞬間に各エアバッグが車体の外側に作動する方式である。具体的には、CCDカメラ、レーザーレーダ、速度センサを装着し、時速20km以上(可変設定可能)でかつ前方の障害物との距離が2.m以内(可変設定可能)に入った瞬間にコンピュータが危険衝突と判断し、ブレーキが作動すると同時にエアバッグが外側に開く方式である。

キーポイントは:

   ① ソフトウエアとして、“どのような状況を危険衝突と判断するかの判断基準の設定”。

ハードウエアとして、“危険と判断された場合にエアバックが外側に作動、かつ瞬時のエアバッグ内空気放出”。

その効果として、“衝突時の人への衝撃吸収と緩和”である。そのコンセプトのフローチャートは以下の通りである。

これを具体的な上述の事故に対応させると、児童達への衝突直前にブレーキの自動作動及び前バンパーに内蔵されたエアバッグが外側に開き、衝突寸前で車が停止(これが理想的)。もしブレーキングで車がスリップし、エアバックが開いた状態で児童へ衝突した場合、衝突と同時にエアバック内の空気が瞬時に一部放出され、衝撃の吸収緩和が行われる。少なくとも死と言う最悪の状態がかなり回避される。

ワンボックスカーを使用し、実機による試験を行った。勿論解決すべき問題はあるが、それによると基本的には時速~60キロまでは対応可能となる。本システムが早急に実用化されることを願う次第である。

図1 外部作動型エアバッグ作動時イラスト




図2 外部作動型エアバッグ動作

自然科学系における研究発表の現状

2015/01/04 2:19 に 山口文夫 が投稿   [ 2015/01/07 16:42 に更新しました ]

元 茨城学習センター所長 塩見 正衞

1.自然科学系における研究発表の現状

わたしは、現在76歳であるが、今も時には国際誌に研究発表している。しかし、今日の研究発表の仕方は、私が研究を始めたころとは大きく変化してきたので、いつも戸惑いを感じている。わたしが農林省 (当時) の研究所に採用になったのは1961年で、農林水産省を辞したのは1993年である。この間約30年、研究成果は主に研究所が発行している報告書(論文集)と身近な学会誌に発表してきた。研究者は、自分たちが所属している研究所や学会が発行している報告書と学会誌に誇りをもっていた。ほとんどの(英語ないし日本語で書いた)論文はこれらに投稿され、研究所内ないし学会内の審査委員による審査のあと修正を経て印刷物となっていた。わたしたちは、印刷された自分の論文を公費で増し刷りし、それを国内外の研究者に郵送・普及したのである。世界の主要な研究所や大学の図書館には、印刷された報告書や学会誌が公費で送られていた。国外の研究機関を訪問したとき、図書館の書架に自分の論文が掲載されている報告所を見つけたときは、興奮したものである。

1993年、わたしが茨城大学に転任したころから、このような研究発表形式は大きく変化したようだ。現在でも、大学や研究所で編集・出版されている研究報告は多いが、今では、それに掲載される論文の国際的評価は限りなくゼロに近い。

 今日、評価の対象になっている科学論文集としての雑誌は、国際誌と呼ばれている。ISI社なるアメリカ所在の評価機関が定めたレベルと形式に適合した雑誌だけが国際誌である。そのような国際誌の編集・出版は、世界の3大メジャー出版社に独占的に握られていて、日本の学協会が発行している雑誌でも国際誌と呼ばれる雑誌は、ほぼ100%これらのメジャーに編集・出版を依頼しているのが現状である。そのメジャーは、アムステルダムに所在するエルセビア社、ベルリンに所在するシュプリンゲル社、それにニューヨークに本部があるワイリ-ブラックウェル社である。わが国でも過去、このグローバル化に対抗できる編集・出版組織をつくる機運があって、全国の学協会が共同で出資、準備を始めたけれども、定年教官による武士の商法だったのか、期待に反して、既に20年ほど前に破綻してしまった。科学雑誌の出版メジャーは、学会などからの委託された出版、自社が独自に発行している雑誌(論文の著作権はすべて出版社に譲渡されている)ファイルを大学や研究機関の図書館に売ったり、個々の論文を研究者個人の注文に応じて売って利益をあげている。ちなみに、大学の経済規模によるが、一大学がメジャーに支払うファイル購入費は年間数千万円、個人が1論文を買うのに必要な費用は一編当り3,500円くらいである。また、日本の学協会が出版社に支払う編集・出版委託費は学協会や雑誌の規模によって異なるが、年間数百万~数千万円と言われている。わたしが思うに、今後新しいメジャーを立ち上げることができるのは、科学出版の分野でも躍進著しい中国のみであろう。

さて、ISI社による論文や雑誌の評価はどのように行われているのだろうか。国際誌に論文が掲載されると、掲載から2年以内に他の論文に引用された回数をカウントして、そのカウント数を論文の評価点とする。また、ある雑誌全体の論文が2年以内に他の論文に引用された回数を掲載論文数で割った値 (すなわち、過去2年間における論文1編当り平均引用回数SCIと呼び、その雑誌自身の評価点としている。点数は、もちろん雑誌や分野によって大きく異なっていて、1未満の雑誌から、数十点にまで広がっている。最も高いSCIの評価値をもっている雑誌は、ネイチャー誌やサイエンス誌である。

博士の学位修得や、研究・教育職に就職する場合、また、助教から准教授、准教授から教授に昇進する場合、研究所なら研究員から主任研究員に昇進する場合には、候補者ごとのSCI点の合計値が評価の対象になることがある。したがって、どの雑誌に掲載されるかは、純粋に研究上の意義以外にも重要な意味を持ってくる。どの雑誌も、1年間に印刷できる頁数に上限があるから、いい論文なら必ず掲載してもらえるわけではない。したがって、研究者間は少しでも高いSCI点の雑誌に掲載されることを目指して厳しい競争を強いられている。ある雑誌への一度の投稿で、論文が審査を経て掲載にまでたどり着けるのは、一般に、2030%といわれている。

それでは、論文の審査はどのように行われているのか。雑誌や専門分野によって若干の差異はあるけれども、いずれも出版社と雑誌ごとの投稿規定に従って、インターネットを通じて投稿する。投稿後1週間くらいで、投稿されたた論文の主題がその雑誌に適合しているかどうかが検討され、適合していない場合には、審査なしで「却下」という連絡が著者に寄せられる。この段階で却下されなかった論文原稿は、編集部から2人の専門家の審査者に送られ、2カ月くらいで審査結果が著者に知らされる。この段階で「却下」の判定が下されれば、その論文が希望したその雑誌に掲載されることはあり得ない。「修正後、再提出」の判定がもらえた場合は、掲載される可能性がある(100%可能性があるわけではない)ので、審査者の指摘を参考に原稿の修正を行う。最も真剣に取り組むのはこの段階である。普通、再提出期限が2カ月以内と切られている。再提出後は、再審査を経て、受理(合格)(あるいは却下)の段階に到達する。論文の投稿は、まずレベルの高い雑誌に投稿し、却下になれば次善の雑誌に投稿する、となるから、一つの論文が完成・掲載されるまでには何度も審査を受けなければならないことが多い。一発で受理されることは、わたしの経験ではほとんどない。

英語を母国語としていないわたしたちには、論文投稿以前に英語の校閲を受ける必要がある。これは、英語がグローバル語として使われる限り避けられない。わたしが現在依頼しているカナダの会社では、1単語7円であるから、1論文では、3万円くらいになる。投稿・掲載に至ると、雑誌によってはかなり高額の出版費を必要とする。110頁くらいの論文で、数万~10万円に達する。

大学や研究機関の研究者に義務として要請されている執筆論文数は、11編と考えていいだろう。これは1年に一つ新しい発見を要求されていることに等しいから、達成は現実、容易ではない。

以上、わたしの主観で書いた実験科学、特にわたしが所属しているフィールド生物学の分野を念頭に、近年の論文出版状況を述べた。なお、研究発表には、集会において口頭やポスターで発表する形式もあるが、これらは特別の場合を除き、評価の対象にはならない。また、レビュー(評論)や主張、書評など、雑誌に掲載された原著論文以外の記事、さらに書籍出版物や新聞記事などは昇進や就職時には評価の対象にはならないのが一般である。

 

2.研究における不正行為について

2014年は、「研究における不正行為」が繰り返し報道された点で特筆される。わたしは、日本学術会議会員(第19期)として在任した当時、第6部(農学)から「学術と社会常置委員会」に所属するよう指定されて、2003年からほぼ3年間この問題についての議論に参加した。それ故、この問題には特別に関心をもっている。

わたしが学術会議会員であった頃、アメリカのベル研究所研究員ンドリック・シェーンは、常温超電導の発見に関する論文を次々ネイチャー誌、サイエンス誌等、第一級の国際誌に発表していた。しかし、それらの研究の実験を行った証拠がなく、また、日本人を含む多くの研究者が再現実験を試みても成功せず、あるいは、彼が雑誌に示した実験方法が不備で、再現実験が不可能であったとする報告が多数出されるようになった。その後、彼の報告はねつ造データにもとづいていることが判明して、論文はすべて取り下げられた。

近年では、2013年に発覚したノバルティス・ファーマの高血圧治療薬ディオバンをめぐる事件や、認知症研究J-ANDIをめぐる不正など、2014年にはSTAP細胞による組織再生の報告等、枚挙にいとまがない。また、必ずしも純粋な研究とはいえないが、製造業などでも、製品の技術的欠陥を隠ぺいしたために生じた人身事故は多発している。これらは、新聞紙上で事件性のある問題として取り上げられたものであるが、氷山の一角であるといわれている。

わたしは、現在、国民的な関心を呼んでいる「研究における不正行為とはどのような概念か」を、以下に手短に触れてみたい。わが国には、不正行為は過去にも多発していたにもかかわらず、公的にそれを防止する法律や機関は存在しない。アメリカでは、1980年代に多発した不正行為に対して連邦議会が介入、連邦政府に不正防止のための組織と規律を確立するように求めた。その結果、2000年になって、大統領行政府の科学技術政策局が、研究不正に関する連邦政府規律を採択した。したがって、それ以降、さまざまな研究不正に関する事例と統計、解決方法が収録・蓄積されてきている。ヨーロッパ先進国では、国ないしは各種協会などに、不正防止のための組織と規則を設けているところが多い。

それでは、「研究における不正行為とは何か?」。日本学術会議の「学術と社会常置委員会」の報告書に沿って書くと、①ねつ造、②改ざん、③盗用に分けられている。「①ねつ造」は、事実に基づかない数字・写真などを以て、あたかも真実であるかの如く研究報告を偽造することである。「②改ざん」は、研究者が持っている仮説に適合しない実験結果 (数字・写真など) の一部を修正して、あたかも仮説が証明されたかのごとく公表すること。「③盗用」は他の研究者が公表した、あるいは研究中の成果を、あたかも自分の研究で得られた結果の如く公表することである。ノバルティス・ファーマの高血圧治療薬の問題は、現実に臨床実験で得られたデータの一部を書き変えて、医薬の効価が向上したかのように装ったのであるから、②改ざんに当たるだろう。またSTAP細胞は、もしES細胞の混入を故意に行ったものであれば、①ねつ造に当たる。

「学術と社会常置委員会」が全国の学協会を対象に行った調査によると、研究不正には上記3つの範疇に含められない不正が多数存在する。挙げると、「プライバシーの侵害」、「研究資金の流用」、「論文の二重投稿」などがある。「プライバシーの侵害」は、下位の研究者が行った研究成果を上位の研究者が、あたかも自分の研究であるかの如く発表する場合などが含まれる(一種のパワハラ)。過去にあった封建的な研究環境では普遍的な現象であった。「研究資金の流用」では、公的に獲得した研究資金を私用に使った事件がよく問題になっている。「論文の二重投稿」は、研究者が自分の見かけの業績数を増やすために、同一内容の論文を複数の雑誌に投稿することである。

研究不正は、数学の定理のように明確に定義できるものではないから、「不正とみなすか、見なさないか」の判断基準はあいまいな場合が多い。たとえば、「③盗用」では、既に公表された他の研究者の論文や著書の一部が自分の見解と同一であるため、その部分を写して自分の論文にとりいれた場合はどうか?日本人の研究者は、英語が母国語でないため、英作文に苦労している。多くの研究者が、既に公表されている英語論文をノートに写し取っておいて、いざというときそれを使っているが、これは盗用か?一般には、既に公表されている論文や著書のデータを利用する場合は、その出所を引用文献として示すことになっている。なお、最近はほとんどの場合、出版された論文の著作権は出版社に所属させられているので、出版社との間で著作権問題が起こらないように注意することも必要になっている。論文の二重投稿についても、「内容と文章が全く同一の論文」は該当するが、「あとから発表する論文には多少新たなデータ解析をつけ加えた場合」はどう判断するかなど、その判断基準は、場合によって異なってくると考えられる。

さて、このような「研究における不正行為がなぜ生じるのか?」について、一言書き添えなければならない。研究者は本来、新しい科学上の発見や技術の確立に対して、他の研究者より一瞬でも早く公表することに執念をもっている。一番目の発表のみが評価されるからである。この競争意識が研究の動機として強く働いていることは確かである。さらに、研究者に内在する新法則の発見や技術の開発意欲の他にも、就職や昇進、名誉欲、予算獲得、サラリー・アップなどは研究者にとって、強い魅力である。このような欲望と動機が研究不正に作用していると考えられる。さらに、これらの欲望を助長する社会情勢が背景にある。わが国では、1990年代に大学院の学生が政策的に倍増され、課程修了者が以前の2倍に増加した。しかし、就職先は増えないばかりか、人減らし政策の嵐のもとで減少傾向にある。40歳になっても、正規職につけない研究者があふれ、1人の助教の公募に対して10人を超える応募者数が常態化している。研究予算は、全体としての増加がない中で、以前に存在した人当予算が大幅に削られ、重点化した研究課題を中心に振り当てられている。サラリーは、たとえば国立大学では、2005年以降は漸減傾向にある。これらの、研究者に対する社会的背景の改善が不正研究を防止する上で特段に重要な対策である。

2005年以降、日本学術会議などの呼びかけによって、日本に現存する1000を超える学協会や大学で、組織的に研究における不正を防止し、もしそれが発生した場合の行動規範が作られてきている。また、大学院生に対しては、「研究倫理」の教育が必須になっている。これらの社会的行動が、研究における不正防止のための重要な行動であることは確かであるが、それだけで研究不正をゼロにすることは困難である。研究不正を減らすためには、研究従事者自身の努力と社会的背景の改善のかみあった効果が重要だとわたしは考えている。

 

参考文献:日本学術会議・学術と社会常置委員会:科学におけるミスコンダクトの現状と対策:科学者コミュニティの自立に向けて. 2002721.

榎木英介:バイオ分野で繰り返される研究不正と科学技術. 前衛201412月号.

郷通子・榎木英介:STAPの教訓. 朝日新聞2014.12.19

 

ブラックホール研究 : 茨城学習センター所長 横沢 正芳先生

2014/11/17 18:05 に 山口文夫 が投稿   [ 2014/11/17 18:11 に更新しました ]

 目の前に心躍るできごとが出現し、それに没頭できることは誠に幸せなことである。1973年の夏、雪渓が残る白馬岳の麓の公民館の一室で、一人の大学院生が、ブラックホールに関する論文を紹介した。その論文は、1ヶ月程前に雑誌に発表されたばかりのもので私も読んでいたが、これほど早くに、しかも同じ学年(修士課程2年)の院生によって、大勢の天文学研究者の卵が集う会合で紹介されたのは驚きであった。そこは、天文学若手夏の学校と云って全国の天文学研究をめざす大学院生が年に一度総結集する場であった。総結集といっても当時は100名程度で、現状の1/5以下であった。長野県の白馬村のように、冬季にはスキー場の宿となるが夏には比較的安価に泊まれる旅館に雑魚寝で34日滞在し、天文学研究の動向を熱く語り合う場であった。先の会合はその一つで、確か「星」の分科会で座長は当時博士課程2年の佐藤勝彦さんが務められていた。私も、紹介されたブラックホールの論文に興味をもっていたので、何か発言したい衝動に駆られて今からみると論文の些細な部分を批判するクレームをつけていた。この論文についての興奮は冷めやらず、分科会終了後も宿の雑魚寝の布団の上での同室の先輩と議論を続けたことを覚えている。


初のX線観測衛星「ウフル(UHURU)」: NASA提供 19701212日に打ち上げられ、19733月まで観測し、この間に300個以上のX線天体を発見した。

1970年代始めの当時は、197012月にケニアの沿岸から打ち上げられたX線観測衛星「ウフル」(Uhuru;スワヒリ語で自由を意味する)によって次々とX線を放つ天体からの詳細なデータが科学誌に発表され、天文学会は大変な興奮に包まれていたときであった。天体からのX線は地球大気に吸収されるので、地上にいる者にとってX線天体は全く未知の存在であった。しかし、科学者の中には純粋に未知なる世界にチャレンジする者がいる。1962年、アメリカMITの物理学者ロッシ(Bruno Rossi)は、「自然は人間の想像を越えた姿を見せることがある。いまは大気の外に出る手段があるのだから・・・」と小さなガイガー計数管をロケットに載せて大気の外に送り出したのである。誰もが強いX線を放射する天体があるとは思っていなかった時代に、ガイガー計数管の記録は明確にその存在を示したのである。しかし、X線観測衛星が打ち上げられるまでは、観測手段はロケットや気球であったことから、観測時間が数分から数時間と限られ、X線天体の存在は分かるが観測データとしては厳しいものであった。X線観測衛星「ウフル」は、長時間にわたる観測から激しく時間変動するX線天体の詳細なデータを地上に送ってきたのである。短いもので、1秒以下から長くて数十日の周期的変動を明らかにした。また、強いX線を放射する天体は、多種多様にあることも示した。星サイズ以下の小さな点源から、数度角の広がったX線源もあることが分かった。これらのX線データから、それまで理論上の天体であった、中性子星、ブラックホールが実証的に研究することができることが分かってきたのである。数度角の広がったX線源は、超新星爆発の残骸であったり、数千個の銀河が集まる銀河団に対応することも分かってきた。X線を放つ領域は、数千万度から数億度の非常に高温なガスが集積するか、或いは、光速に近い速度を有する高エネルギー粒子が密集する状態を要求する。何れにしても、それまで可視光の望遠鏡で見てきたものとは、遙かにかけ離れた天体像を要求する。宇宙にあるガスや粒子がX線を放つ状態になるためには、非常に激しいガス運動や粒子加速機構が宇宙に存在することとなる。即ち、宇宙は激しい活動性を有する存在であることが分かってきたのである。

 前述の分科会で紹介された論文は、ブラックホール周辺から放たれる高光度のX線放射の仕組みを解いたもので、後に標準理論として位置づけられることとなる原論文であった。ともかく、眼前にウフルが切り開いたX線で見える宇宙の姿は、想像を絶するものがあり、若い大学院生には強烈な刺激を与えるものであった。このとき、宿舎で議論した多くの大学院生はX線天文学の研究に進むこととなった。が、この頃の大学院生は野性的或いは遊び上手なところがあり、若手夏の学校に参加すると期間中の1日位は近くの山に登り夏のアルプスを満喫していた。このときも、確か、当時在籍していた北大の研究室仲間と白馬近郊で遊んだ後、北海道に帰り、再び積丹半島の突端の人里離れた海岸端でキャンプを張り、北海道の冷たい海で泳いで遊んだことを鮮明に覚えている。これから研究を始めようとしていた時に、ウフルが詳細なX線データを送ってきたことはラッキーなことであり、幸せなことであった。

バミューダからJCがやってきた   元所長   塩見正衛先生

2014/06/12 2:44 に 山口文夫 が投稿   [ 2014/06/12 2:48 に更新しました ]

1.    JCが来る 

昨年暮れ、JCからemailでクリスマス・カードが送られてきた。それには、「20145月に成田経由で香港に行くから、会えないか?」と書いてあった。僕は早速、「これからもう会えるかどうかわからない(歳だから)から、ぜひ会いたい」と返事を出した。

それ以後何の音沙汰もなかったけれども、数日前、僕が長崎を旅行中emailの知らせが来て、「59日に香港に行きたいので、成田で途中下車したい。会えるか?」と言う。すぐに、「59日の前、数日間ならいつでも会える」と返事を書いた。今日彼から、「56日に成田に着いて、8日まで日本で休憩したい」とのemailが来た。僕は家内と相談して、「OK」した。さて3日間どのように過ごすか?をこれから考えなくちゃ。

JCとの出会いは、今から40年ほど前にさかのぼる。僕が科学技術庁職員の身分で、1年間カナダのピールー教授のところに滞在した時のことである。彼は、ハリファックス空港にピールー先生と一緒に僕と家族を迎えに来てくれた。彼は、ピールー先生のところの修士課程の学生であった。好奇心が強く、僕や家族に親切で、1年間友人として付き合ってくれた。僕は、できない英会話を少しでも改善しようという気持ちで、彼と一緒によもやま話をしたり、将棋を教えたり、また僕のアパートで家族と一緒にワインを飲んだりした。僕たちが彼の家を訪問して酒をのんだこともある。彼は結婚していて、学校の先生をしている奥さんがいた。僕の長女も彼と奥さんにはよくなついていた。

19738月に僕と家族がカナダから引き揚げるときとほとんど同時に、法律家を目指してニュージーランドに移住するということであった。その後半年くらいたった冬、彼は日本にやって来て、寒い冬を埼玉県上福岡市の借家でひと月ほど過ごしたことがあった。

それからは、会うことはなかった。彼は、バミューダで法律事務所を開いたそうである。毎年暮れにクリスマス・カードを交換する程度の付き合いだったけれども、途切れることもなく40年以上がたった。最初の夫人と離婚したこと、2度目の結婚もうまくいかなかったこと、現在はもう20歳を超えた男の子2人を育てていること、時々南アフリカに行って飛行機を操縦すること、癌にかかったことなどは、手紙やemailで知っている。

僕たちがカナダにいたころは、彼はまだ20歳代で、とても背が高くがっちりした体格の美男子であった。僕たちがいたカナダの、最も東のノバスコシア州にあるダルハウジー大学には、兵役を終えると国から奨学金が出る制度を利用して入学したそうである。彼のいた研究室には3人の大学院生がいて、僕は彼を通じて彼等とも親しくなった。1人は、フランス語圏から来ている学生で、その後古生物発掘の仕事に従事した。もう一人はブリティッシュコロンビア州にある大学で統計生物学を教えていた。JCの研究室の入口には、「アブラムシの家」という張り紙がしてあったので、JCはアブラムシ(ゴキブリではないアブラムシ)の統計学か何かをやっていたのだと思うが、研究の話はあまりしたことがなかった。

このように長い付き合いのある友人は、大学時代の同級生を除くとそう多くない。そうして、年を経るに従って、段々その人数が減って行く。形式だけ保ってきた年賀状の交換は何かのきっかけで途切れる。故人となる人もいる。だから今度JCに会うのも終活の一つであると考えている。5月にはこのつづきが書けるといいが。    (201447)

 

2JCが来た 

5510時前に、僕は現在このあたりでは見かけなくなった古い白のサニーを運転して、家内と一緒に成田空港に着いた。2階のロビーで30分ほど待つと、掲示に1010分着のロンドンからの飛行機が到着したと出た。それからずいぶん待ったような気がしたが、やっとロンドンからの乗客が三々五々出口に現れるようになった。JCがニコニコ顔で手をふりながら出てきた。40年ぶりの再開である。互いに、肩を抱き合って再会を喜んだ。彼はこんなにと思うほど背が高い。肩を抱き合うと言っても、背丈が違いすぎるので、ちょっと不自然な格好になる。

JC59日の朝まで日本に滞在する予定である。僕たちは、5日午後には作り酒屋を見学し、夜は水戸市内のレストランで歓迎の夕食、6日は偕楽園と千波湖周辺を散策してから、僕の家で夕食、7日は東京に出て浅草あたりを歩く予定を立てた。8日は、大洗方面に行こうと計画を立てていたけれども、その日は疲れていたらしく、結局ホテルやレストランで雑談しているうちに、とうとう僕たちが成田に送って行く時間になってしまった。9日は朝早い飛行機に乗ると言うので、前日から成田市内のホテルに泊まることにしていた。

さて、5日から9日までの全部をここに書くことはできない。7日の浅草紀行だけをかいつまんで書き残しておこう。

僕たちは、9時にホテルで落ち合い、常磐線特急で東京に向かった。雷門の大提灯の下で10時半ごろ娘の文と落合う約束がしてあった。文は、前にも書いたように、カナダの小学校で1年間暮らした時、JCの家族によくなついていた。JC夫人はその頃小学校の先生だったから、子供の扱いに慣れていたのだろう。

浅草仲見世は、僕たち日本人が歩いても大変楽しい所である。扇子や人形、ガラス細工などを売る小さな店が狭い道の両側に数十軒並んでいる。たこ焼きを売る店や、靴屋などもたくさんある。一軒一軒のぞいて歩くと、時間がいくらあっても足りない。日本人だけではなく、中国やタイ、マレーシアなどアジアの人たち、ヨーロッパやアメリカからの観光客も多い。東京駅のホームくらいに人が混んでいるから、僕は何回も「すりに気を付けて!」と言わなければならなかった。実際、ここはすりが多いそうだ。そして浅草寺。人々は、厄除けに、線香に火を付けて壺のように大きな線香立にたてる。その煙を被ると、無病息災なのだそうだ。おみくじを引く。英語で書いたおみくじが用意されている。吉。結婚もいいし、金運もまあまあだそうだ。失せものも現れるという。

JC にとっては、このような日本的で愉快な場所に来たことはないし、今後来ることもないだろう。いくらか風景の写真を撮った。通行人に頼んで、4人の記念写真も撮ってもらった。娘の文は、しきりにブロークンな英語でJC と話している。JCの話だと、英語は悪いけれども、発音は僕よりずっといいということである。小学生のころに覚えたからだろう。仲見世の裏通りで、簡単な昼食を摂って(JCと僕は中華丼を食べる)から、浅草を流れる隅田川を大きなボートで下って、浜松町の海岸まで行くことにした。船乗り場では、ちょっと待ち時間があったので、また4人で写真を取り合ってから、列に並んで船に乗り込んだ。

2階建ての大きなボートである。直前に、韓国のフェリーで大事故があった。300人ほどもの修学旅行生や乗客がなくなったことを思い出す。船乗り場を離れる直前に、JC が「カメラがみつからない」と言い出した。僕たちは、少し前に陸上で写真を撮ったばかりだから、うっかりポケットや鞄にしまいこんでいないかどうか大急ぎで調べた。でも見つからない。急いで下船、写真を撮ったバルコニーに出て、そこらに落としていないかどうか調べたけれども見つからない。切符売場に行って、カメラの落し物が届いていないかを尋てみたけれども、やはり駄目である。売店嬢は、すぐ近くにある交番に行くように勧めるので、そこに届けられていることを期待して行ってみた。交番には4人の警察官がいて、事情を丁寧に聴いてくれたけれども、カメラは届いていないということであった。連絡先の住所などを書類に記入して届けで、連絡を待つことにした。警官の話だと、すりが多く、すられた場合には返ってこないという。これ以上どう仕様もないから、やっぱり遊覧ボートに乗って観光を続けることにした。

そういう状態だったから、陽気な気分はすっかりどこかに行ってしまった。彼がとった日本の記念写真は、もう戻ってこないと悲しそうである。

夕方、山手線で浜松町から有楽町に出て、僕が参加しているセミナーの連中がよく行く飲み屋に入った。そこで酒を飲んで、今日の出来事を忘れることにした。娘の文はよくしゃべるし、よく気がつくから、お客の接待なども任せらる。7時半ごろに切り上げ、9時過ぎには水戸駅に帰り着いた。

浅草寺で引いたおみくじには「失せものは現れる」と書いてあったけれども、今のところカメラは出ていない。僕の撮った写真を送ろうと思い、数日前、駅ビルの電気店でUSBメモリーを買って来た。

楽しみにしていたJCの滞在はあっという間に終わった。今度は、バミューダに来いということである。しかし、年を取ってきたし、ちゃんとした計画が立てられる自信もない。

今年87日にコロラド州立大学の知人夫妻が、僕の所にやって来ることになっている。東京や京都を旅行して、11日から一緒に中国渡り、最後に20日から24日まで長春で開かれる中・日・韓草地学会に参加する予定である。目下、旅行の日程とコースを計画中である。僕にはこれまで長期の海外旅行の計画など立てた経験はない。また、僕は間違いを犯しやすいことでは定評がある人だから、計画は立っても、順調に進められるかどうかと考えるたびに眠れなくなる。                  (2014528)

 

3. JCからの電子郵便 

正衛、和子

私は今旅行から帰って来て家にいます。香港はとても蒸し暑く、シンガポールはそれ以上でした。(香港での)仕事は非常に忙しかったです。私はそこでちょっと休みを取りました。日本やイギリスの涼しい天気とはずいぶん違いました。

シンガポールとバミューダの間には、実に12の時間帯があります。それで、今ひどい時差ボケに悩まされています!

日本への入国ゲートから出てきたら、すぐにあなた方が見つかりました。お二人は(40年前と)全く変わっていません。私同様に、ただちょっと頭が白くなっただけです。

私は、あなた方と、そしてちょっと素晴らしい驚きだったのですが文に会えて、日本で一番素敵な時間を過ごせました。私は日本酒の醸造所(明利酒類株式会社・博物館)を見学し、冷酒をいただきましたが、とても楽しく、こういうことはこれまで一度もありませんでした。私たちが写真を撮った醸造所の外に立っていたのは徳川さん(光圀のザレ人形)ですか?湖の周りの水戸公園の中の偕楽園を散歩しました。この庭園はとても立派です。日本三大庭園の一つなのですね。また、私はあなたの大学、茨城大学に行きました。大学は、非常に土地がうまく使われていると思いました。そして、散歩をし、コーヒーをいただきました。

(成田空港に行く途中)高速道路の近くの市場に立寄れたのは、とても楽しかったです。鋒田の立派なメロンがありました。東京で行った神社(神社ではなく浅草寺)は面白かったです。遊覧船に乗る前にその近くで食べた小さな食堂も楽しかったです。

私をもてなし、家族のようにしてくれました。本当に素敵な日本訪問できました。あなた方お二人に会え、一緒に過ごせて本当によかったと思っています。(日本語で)本当にありがとう。本当に長い間、あなた方には会っていませんでした。

私はもう一度会えたらと思っています。できれば、次はバミューダで。大歓迎です。

写真はいくつかは回復できました(スマートホンから)。私のコンピュータに移したので、いくつかを添付します。子供たちのを2枚と、クリス・ピールーの住所を一緒に入れておきます。彼女は90歳だと思います。香港で、新しいカメラを買いました。日本でのカメラのことは心配しないでください。警察との交渉を助けてくれてありがとうございました。

京成ホテルの支配人が水戸城について翻訳してくれました。おそらくあなたが頼んでくれたのだと思いますが。

あなた方に、すべてがうまくいきますように

ジョン

 

(注)

1) ( )内は、翻訳時に補足した文節。

2) ちょうど56日の代休日で、大学は構内には入れたけれども、建物に入ることはできなかった。JCには僕のいた大学は小さな大学だと言っていたのですが、建物の数や配置を見て結構大きくて、きれいな大学だとの印象をもったようだ。

3) 浅草寺では、賽銭を投げたり、おみくじをひいたりした。また線香の煙を冠って、健康祈願もした。昼食は、小さなあまりきれいでない食堂で、中華どんぶりを食べた。浅草では、Jは船乗り場でカメラをなくしてしまった。

4) クリス・ピールー(Chris Pielou)は、僕がカナダの大学にいたときの教授。数理生態学が専門。1924年生れの女性科学者。僕は、彼女に会う前から本や論文で勉強していたけれども、彼女の研究がその後の僕の研究に大きな影響を与えたと思っている。15年くらい前までは、クリスマス・カードの交換をしていたけれども、その後手紙が来なくなり、住所も分からなくなっていた。EC Pielou, 335 Pritchard Rd, Comox, BC V9M 2Y8, Canada;電話:250-339-1780. 早速、Jと一緒に撮った写真を送ってみます。

5) 水戸城には、かっては小さな天守閣と櫓があったそうです。その図面が形成ホテルのロビーに貼ってあります。                     (2014610)

 

ダイナミカルシステムの制御 ―ロバスト制御を中心として―

2013/11/02 1:15 に 山口文夫 が投稿   [ 2013/11/02 1:19 に更新しました ]

                                                                                             茨城学習センター所長  白石昌武

 筆者が現在委員となっている超精密位置決め専門委員会では、ナノアクチュエータへの技術が今後益々要求されることは必致であり、その性能を最大限生かすためにはロバスト(強靭な、変動に強い)な制御法が欠かせない。アクチュエータの特性を周波数領域でより明確に把握し、外乱等に強いロバストなアクチュエータ制御法の構築が要求される。しかし制御の難しさは対象を正確にモデル化できないことにある。加えて制御系のパラメター変動(負荷、時定数、定数等)や外乱の影響等があるため、制御系設計の際にどこまで対応できるかが鍵となる。そのような困難さを克服するため、ロボットを含むメカトロニクスに代表されるようにSensor-based control、つまりセンシング情報を駆使した制御系の設計が一般的となっている。

 一方これとは別に、近年ではモデルの不確かさを補償し、制御の質を向上かつ維持するためにH∞ に代表されるロバスト制御法が中心となってきている。図は、筆者が以前精密工学会ロバストセンシングと制御委員会の委員長を仰せつかっていたおり、独断と偏見でロバスト制御法を分類したものである。殆どのダイナミカルシステムは非線形であり、そのまま非線形制御系として取り扱うことは勿論可能である。それとは別に何らかの形で線形化して取り扱うことも一般的に行われる。図のように、動作点近傍での線形化、非線形フィードバックによる線形化、そして構造解析による線形化などが代表的な方法である。線形化後は古典制御に代表されるPID制御、さらには高度な現代制御理論の適用が可能となる。近年では位置決め制御の分野において、PID制御の調整パラメータを適宜選択することで非常に良好な制御結果も得られている。

 ロバスト制御には受動的な方法と能動的な方法がある(と筆者は考える)。前者を弱いロバスト制御法(結果的にロバスト性が得られている)とするならば、後者は強いロバスト制御法と言えよう。表には記していないが、これらを複数組み合わせた方法もあるが、ここでは省略した。

 要は制御として何を重視するのか、精度か、即応性か、あるいは追従性か等により適宜制御法を選ぶことが重要である。何かの参考になれば幸いである。

Charles D. Bonhamさんの新刊書       元茨城学習センター所長 塩見正衛

2013/09/03 7:37 に 山口文夫 が投稿   [ 2013/11/02 3:03 に更新しました ]

 2年ほど前にBonhamさんから、「陸上植生の計測Measurments for Terestrial Vegetation」の改訂版を出したいというemailが来た。この本の初版は1989年にWiley社というアメリカの出版メジャーから出ていて、私も野外実験や解析方法の参考にしてきた。改訂版は今年6月に印刷、7月に私にもBonhamさんから署名入りの本が1冊送られてきた。やはりWiley-Blackwell社からの出版で、245頁のハードカバーである。
Wiley-Blackwell社の編集の担当者に、Izzyさんという人がいて、2年前にわたしにBonhamさんの本の査読委員の一人になってほしいと伝えてきた。Bonhamさんは知人でもあるし、査読は勉強にもなるから引き受けた。まず、初版本を通読して、問題点や改善した方がいい部分をIzzyさんにコメントとして送った。初版は400頁以上もあって、自ら1日に40頁を読むことを義務付けて、10日かかってメモを作った。しばらくすると、次々とIzzyさんから改訂版の原稿が、下書きができた順番に送られてくるようになった。この査読はとても大変で、途中で投げ出したくなるくらいであった。私の専門分野であるし、専門書の英語は新聞などより読みやすいけれども、やはり日本語のようには楽には読めない。英和辞書も必要となる。さんざん苦労したけれども、Izzyさんにはその苦労は分かるまい。なぜなら、英語の国の人たちは、世界中の人が、自分たちと同じように英語ができると信じているからである。
Bonhamさんの改訂版には、この15年ほどの間に私たちが発表した論文がいくつも引用されていて、私も少し得意顔になる。
Bonhamさんと知り合ったのは、1987年中国ハルビンで開かれたの草原学会に参加したときである。見学バスの中で自己紹介し合ったとき、私たちの研究が非常に近いことが分かった。それ以後、私が編集した環境問題の本に寄稿をお願いしたことがある。また、15年ほど前に、カナダで開かれた国際学会のあと、Bonhamさんが当時勤めていたコロラド州立大学のFort Collins校を訪問して、ご家族や親戚の方々の世話になったこともある。2008年には、植物の測定方法と統計解析に関する共著論文を書いた。
今回の改訂版の出版には、心からおめでとうを言いたい。ちなみに、Bonhamさんの正確な年齢は分からないけれども、すでに大学は定年になっていて、私とほぼ同じ年だと思う。10年ほど前に奥さんを亡くされ、その後沈んでおられたので、「一緒に仕事して、元気づけたい」といつも思っていたのだが、今回それが果たせたように思う。(8/29/13)

ある発見:植物の集まりにはどのような法則があるか  元茨城学習センター所長 塩見正衛

2013/09/03 7:34 に 山口文夫 が投稿   [ 2013/09/05 18:00 に更新しました ]

いつからだったかは正確には思い出せないけれども、10年以上も前から、ある一つのことを考えていた。草原で種類数を調査するとき、私たちは、ライン上に10cm四方の金属枠を100個置いて、枠ごとの種類数をかぞえている。そのとき、枠の中に見つかる植物の種類数はさまざまである。ある枠では5種類だったり、その隣の枠では8種類だったりである。荒れて、裸地のある草原では、1種類もない場合、すなわち0種類の枠も出現することもある。このような種類数を、小学校の級長選挙の開票のときのように、植物がない枠数が2、1種類だけ出現した枠数が5、3種類が出現した枠数が7…というような度数分布を作っていく。「この度数分布は、何らかの法則にしたがっていないか?」、「その法則は数式で表わせないか?」。これが、私たちの考えていた問題である。時々思い出しては、「死ぬまでに解けるかな」とたがいに言いあいながら、データや式をいじっていたが、いつも回答にたどりつかないまま先送りにしてきた。
2012年の暮に、私はまたこの問題を考え始めた。ある夜、床についてからずっとこの問題を考えていると、以外な発想が起こった。「起きて、ノートに書きつけておこうか、どうしようか」と迷ったけれども、どうせ碌な考えではないだろうと、そのまま眠ってしまった。翌朝、昨夜の着想を思い出せたので、コンピュータに向かって計算してみると、どうも正しい発想らしい。それからは、正月の間ずっと、いろいろのデータによる例題を計算してみるたが、すべてデータは考えている数式に合致することが分かった。この数式は、ある程度理論的である。すなわち、生物の集団構造が、この数式であるていど理論的に組み立てられている。私は相当興奮していた。そしてその興奮は3月ごろまで続き、大学や東京でのセミナーでも話したけれども、深く関心を持つ仲間はいなかった。それで、周りの人には「新しいことを、見つけたかも知れないよ」と言うだけにした。3月に開かれた生態学や草地学の発表会では、話の道筋を少し外れて、ちょっとだけこの発見を付け加えて話した。おそらく皆は何を話しているのかよく理解できなかったのではないかと思う。
2013年1月8日に、スロバキアにいるの私の友人からemailがきた。「スロバキアでは、チェコやハンガリーなどの近隣の国から草地生態学者が集まって、シンポジウムを開くので来ないか」という誘いであった。私は時間と旅費のことを考えて、出席できないと返事したが、そのとき、「もし論文だけの提出が許されるなら、そうしたい」と添え書きした。そういうことで、種数の頻度分布のデータと数式は、見つけてから数か月で3月8日に日の目を見ることになった。日の目を見たと言っても、おそらく参加者の興味を引きはしなかっただろう。ただ、広く世界中にインターネットで流されただけである。
この問題、自分たちのグループは関心を持っているが、実学には何の役にも立たないだ
ろう。私たちは、草原では、植物の集まりがどのようにして構成されているかを、明らかにできるきっかけになると考えているけれども。論文名は次の通り。(8/27/13)
Chen, J., N. Gáborčík, M. Shiyomi (2013) Frequency distribution model of species number in grassland communities. Proceedings of 8th Conference of Grassland Ecology. Grassland and Mountain Agricultural Research Institute, Banská Bystrica, Slovakia. pp. 47–52. (第8回草地生態会議報告書47–52頁:草地群集における種数の頻度分布モデル)

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