喜望岬はどうして喜望峰なのか 元 茨城学習センター所長 朝野洋一

投稿日: 2015/02/16 7:12:47

岬のはずが峰になっている

アフリカ大陸西南端の喜望峰(34°21′S,18°30′E)は、地理や世界史でおなじみの地名です。1488年、ポルトガルの航海者バルトロメウ=ディアス(1450ころ~1500)が南端部を回航し、アフリカ大陸が南極方面まで伸びているという従来の見方を変え、大陸の西の大洋(大西洋)と東の大洋(インド洋)がつながっていることを明らかにしました。この時、付近の海域は大荒れだったので嵐の岬(Cabo des Tormentas)と名付けました。しかし時のポルトガル王ジョアンⅡ世(エンリケ航海王の甥)は、インドへの航路発見を祈念し縁起の良い喜望の岬(Cabo da Boa Esperança)と改めました。その後、同じくポルトガルの航海者バスコ=ダ=ガマ(1469ころ~1524)が1497年にこの岬を回航し、アフリカ東岸に沿って、既に当地に進出していたアラビア商人達の抵抗に遭いながら北上し、翌年にカリカット付近へ到達しました。インド航路が開かれたのです。因みに南緯40~50°付近の海域は、船乗りたちに「荒れ狂う40度帯(the roaring forties)と呼ばれる航海の難所です。大きな大陸のない南半球のこの緯度帯では、強い偏西風により常に波立つ海流(西風皮流)があり、大陸南端付近の海域も荒れることが多いからです。なお、 アフリカ大陸の最南端、すなわち大西洋とインド洋の境目にあたるのは、喜望の岬より東南に位置するアガラス岬(Cape Agulhas,34°50′S,20°E)です。 ところで喜望の岬の英語表記はCape of Good Hope、現地語のアフリカーンズ語ではKaap die Goeje Hoop,その基になったオランダ語ではKaap de Goede Hoop(カープ=デ=フーデ=ホープ)です。この岬は、南アフリカ共和国西ケープ州ケープタウンの南に伸びる幅20㎞、長さ53㎞のケープ半島の先端部にあります(最先端はケープポイントと呼ばれています)。この付近は海食崖で縁どられた30~60mの台地状であり、高いところでもバスコ=ダ=ガマ峰の250m程度です。このような岬ですが、日本では一般に喜望峰と表記しています。英語名を併記している地図帳もあります。しかし、英語のcapeは水面に突き出た陸地という意味ですから、「岬」や「崎」とするのが妥当でしょう。一方、漢字の「峰」は山の尖った部分を言い、海に突き出たところという意味は見当たりません。では、一体どうしてこのような表記が使われているのでしょうか。因みに、中国語では好望角と表記します。角は「つの」の形をしたもの、尖ったところという意味です。

先学の研究書や啓蒙書を見ても、特に注記もなく「喜望峰」と書かれています。例えば織田武雄著『地図の歴史』(講談社、昭和48)は、内外の代表的古地図(主に世界地図)の成立と記載内容を探検史・歴史的文化的背景などから詳しく考察している書物で、本稿でも参考にしたところが多いのですが、随所に登場するのは「喜望峰」です。capeの意味を承知しつつも、あえてこの表記に従っているのですから、識者の間では周知のことかも知れません。いろいろ調べてゆくうちに、日本における世界の地名・国名の漢字表記については、新井白石の『采覧異言』(享保10、1725)が大きな影響を与えたことが指摘されていました。そこで、このあたりから検討してみることにしました。

少ない情報が錯綜して混乱?

江戸時代の学者・政治家であった新井白石(1657~1725)は、キリシタン禁制下に屋久島に潜入上陸して捕えられたイタリア人宣教師ショバンニ=シドッチ(?~1714)を幕命により取調べ、正徳3(1713)年に将軍への報告書『采覧異言』を提出しました。これはカナ交じりの漢文で書かれたもので、江戸時代を代表する世界地誌書と言われています。刊行はされませんでしたが、多くの筆写本がつくられ、広く知識人に読まれたそうです。なお、白石は『采覧異言』とともに国文による『西洋紀聞』(1715年頃)を書いています。これはシドッチへの尋問結果やオランダ商館長からの話などをまとめて一層詳しい内容となっていますが、キリシタン関係の記述があるため永く私蔵されており、1793年になって幕府へ提出された後、1807年に公にされました。

白石は、世界地図を指し示しながら通詞を介して尋問し、報告書作成に際しては地図類その他の既知の知識との異同を考察しています。もっとも参考にした世界地図は、アフリカ南端を回ってインド経由で中国に渡ったイエズス会士マテオ=リッチ(1552~1610)が北京で刊行した『坤與万国全図』(1602)です。これは6枚を合わせると縦1.79m、横4.14mの大きな世界全図になるもので、漢語による地名・国名,地球の形状などに関する説明があり、地図と地理書としての性格を併せ持っています。基になったのが1570年代にヨーロッパで作成された数種類の地図であるため記載内容はかなり古くてなっていましたが、外国語を学ぶ機会の少なかった江戸時代の人々にとって漢字表記の世界地図は重要な情報源であるため長く使われたそうです。日本に2組、バチカンに1組現存します。

さて、『采覧異言』におけるアフリカについての記述を拾うと次のようです。まずアフリカは、「南至カアプトボ子スベイ.北與エウローハ接.」とあり、南端の「カアプトボユスペイ 意呼カアボ テ ボ子イスエンサ 和呼カアボ テ ホスフランス 又名カアプ」としています。岬にあたるカアプ・カアボや前置詞のト・テは分かりますが、グッドホープにあたる部分は類推が難しいような表記です。恐らくオランダ語の通詞だったでしょうから、慣れない外国語のカタカナ表記には手こずったことでしょう。ここで新井白石は、坤與万国全図では「利未亜之南至大浪山,北至地中海」となっていることや別の地図や伝聞では南に大嵐やタイラの名があること、地名か国名か不明など西洋人の説には異同があり疑問が多いとしています。しかし、尋問結果としてカアプトホユスペイ(曷叭布刺(カアプトホユスベイ))は「地在利未亜之南、其北連大山、餘三面皆際大海」とし、野生動物が多いことや近年オランダ人が航海の経由地として併得したことなどを記述しています。なお、『西洋紀聞』では、当地を「イタリヤの語にカアボテボ子イスフランサといひヲヽランド語にカアボテホースフランスともカアブともいふ。漢繹未詳。其地は、すなわち漢に大浪山角(オランシャンコ)と志るせし所也。按ずるに萬国坤與図の仙労冷祖(スエンラウレヌツウ)アリ、カアブの音転じ訛りて仙労冷祖島(注:マダガスカル島)の地名とするに似たり。」としています。カアボ云々については漢語の意味は分からないが、大浪山角の名がある場所であるとしています。角には岬の意味がありますが、詳述はありません。「按ずるに」以下はマダガスカル島の一部ではないかとの誤解によるものと思われます。

このように、『采覧異言』では、アフリカ大陸の南部にオランダ人がカアプと呼んでいる地方があることは認めていますが、カアプの意味やその場所、既に知られていた大浪山・大嵐・タイラの名称との関係ははっきりしません。混乱の理由として考えられるのは、地図の情報と尋問の結果との時間的ずれが大きいことです。すなわち、オランダ東インド会社がケープタウンの地に航海の中継拠点を置いたのは1652年であり、マテオリッチの地図が作成された時代(1602)、その基となった地図類の作成された時代(1570年代)にはカアプ植民地はなかったのです。一方、後に明らかになることですが、タイラ(大浪山、大嵐)はケープタウンの背後にそびえるテーブルマウンテン(1086m)のことであり、既に1503年にポルトガル人が登頂し命名しているのです。海上からもよく見えるこの山は、航海者にとって恐らく喜望の岬よりも顕著なランドマークとして早くから地図に記載されてきたのです。近くのケープ湾が大陸南端部における重要な停泊地であったことも関与していると思われます。さらに、本来は岬の呼称であるものが植民地の名前にもなっていることも理解を難しくしていたのかも知れません。

テーブル山と喜望の岬の混同は誤訳から?

次に、『訂正増訳 采覧異言』(享和2、1802)を見ることにします。この書物は、土浦藩士山村昌永(才助)(1770~1827)が和漢洋の書籍・地図など1000点以上を参照して『采覧異言』を増補改訂した大部のもので、蘭学の師である大槻玄沢(1757~1827)が参閲しています。昌永は「大嵐(タイラ)ハ西語“タフラ”」即和蘭ニ云“タアフルベルグ”ニテ漢ニ大浪山又喜望峯ト云者即是ナリ」とし、ケープタウンの背後にそびえるテーブルマウンテンが喜望峰であるとしています。この混同がどうして起こったのかは、オランダ語のカアプ(Kaap)の翻訳にあります。『采覧異言』ではアフリカの西側の海をインスレテカポヘルとしていますが、昌永はこれを訂正し、インスレは島、テは助辞、カポは峯、ヘルはヴェルデで緑の意味であるとし、漢字では緑峯島とするのが正しいとしています。すなわち現在のカーボベルデ共和国の島々です。本来のカーボヴェルデは現在のセネガル共和国の首都ダカールのあるヴェール(ベルデ)岬のことで、昌永はこれを緑峯としています。オランダ語のKaapには「低い前山」の意味があることからカポを緑の峯と訳したものと思われます。同様にして、オランダ語のKaap de Goede Hoopは喜望の峯となったと考えられます。ただし誰がいつ頃「喜望」と訳したのかは分かりません。昌永は『増訳万国伝信紀事』を引用して「(アフリカは)周囲大凡五千余里,其西ハ緑峯(カボベルデ)ニ赴テ東ハ瓦児大付峯(マタハ哇而大峯ニ作ル)ニ至ルマデ凡一千六百余里南ハ喜望峯に赴テ北ハ地中海ニ至ルマデ」と三つの岬を「峯」と表記しています。なお、今では、緑峯はヴェール(ベルデ)岬、ソマリア半島先端の瓦児大付峰はグアルダフィ岬(Cape Guardafui)またはアシール岬(Ras Asir)となっています。

福澤諭吉もあえて「喜望峰」とした?

テーブルマウンテンと喜望峰の混同及び喜望「岬」を喜望「峰」と表記する状態は、明治初年に刊行された福澤諭吉の著作の一つ『頭書大全 世界国盡』(明治2年刊)でも見られます。福澤は,新しい時代の児童・婦女子の教養のためにと英米の地理書を翻訳し、世界地誌を主体とした本書を刊行しました。本文は七五調の簡潔な文体として覚えやすくし、達筆な行書体の漢字仮名交じり文は手習いの手本になることを意図したものでした。また、簡潔な本文を補うため、ページ上部の余白に細かな注記(頭書(とうしょ))をし、不鮮明なものもあるが多くの挿絵を入れています。福澤諭吉著作集の解説によれば、この本は明治16年に教科書の認可制度発足するまで教科書として広く使われ、その後も広く流布したとあり、その影響力は極めて大きかったと考えられます。

ここで『世界国盡』巻二 阿非利加(あふりか)州 で該当部分を引用すると次のようです(漢字は一部常用漢字に直した):「麻田糟軽(まだかすかる)」の西南(にしみなみ),阿非利加州の陸(みち)の辺(はて),西に廻れば「喜望峰」,望(のぞみ)はてなき西海(さいかい)の風に颺(ひら)めく旗影(はたかげ)は記章違(しるしたが)わぬ「英吉利(いぎりす)領」,「印度」地方へゆく船は長(なが)の海路(うみじ)の「阿多羅海(あらたかい)」(注;大西洋),越えてしばしの碇泊に旅行(たび)の鬱(うさ)をもなぐさめん.喜び望む峰(みさき)とは舟子(しゅうし)の情を汲取りて名を下(くだ)したる文字ならん.喜望峰の西のかた「発天戸地屋(はてんとちや)」(注:ホッテントットの住む土地)(省略).

ここで福澤は,喜望峰の「峰」に「みさき」と読み仮名を付しています。しかし、挿絵には「喜望峯の景」として波立つ海面に浮かぶ帆船を前景に、水平線上にケープタウンと思しき四角い建物が密集した街並み、背後にはテーブルマウンテンらしき平頂の富士山型の二つの山が描かれています。「岬」は確認できず「山峰」が強調されているような絵です。このような絵を掲げ、「峰」を「みさき」と読ませているのは理解できません。さらに疑問を増すのは、『世界国盡』の附録部分の記述です。英語文献の翻訳に基づいて自然地理と人文地理を簡潔に概説している中で,自然の地学(自然地理)の節において用語の定義をし,「半島(はんしま)とは三方水にして一方のみ大地に続きたるをいう」とか「岬とは海に突出(つきいで)したる陸地をいう。亜非利加の南の端に喜望峰あり、南亜米利加の端に“けいぷほふるん”あり。」と述べています。テーブルマウンテンと喜望の岬とを混同していること、峰を「みさき」と読ませていることと岬の定義とは相互に矛盾していることは明らかです。

今日、テーブルマウンテンと喜望の岬とは区別されていますが、本来「喜望岬」とすべきところは「喜望峰」のままです。また、今日、学校用教科書・地図帳などでは世界の地名や国名を可能な限り現地の読み方に従って表記(したがってカタカナ表記)することになっていますが、喜望峰については漢字表記のままです。慣用語になっているので今更訂正することもないのか、あるいはケープ=オブ=グッド=ホープ岬やグッドホープ岬では“ピンとこない”とか“しっくりしない”からなのでしょうか。