バミューダからJCがやってきた 元所長 塩見正衛 先生

1. JCが来る

昨年暮れ、JCからemailでクリスマス・カードが送られてきた。それには、「2014年5月に成田経由で香港に行くから、会えないか?」と書いてあった。僕は早速、「これからもう会えるかどうかわからない(歳だから)から、ぜひ会いたい」と返事を出した。

それ以後何の音沙汰もなかったけれども、数日前、僕が長崎を旅行中emailの知らせが来て、「5月9日に香港に行きたいので、成田で途中下車したい。会えるか?」と言う。すぐに、「5月9日の前、数日間ならいつでも会える」と返事を書いた。今日彼から、「5月6日に成田に着いて、8日まで日本で休憩したい」とのemailが来た。僕は家内と相談して、「OK」した。さて3日間どのように過ごすか?をこれから考えなくちゃ。

JCとの出会いは、今から40年ほど前にさかのぼる。僕が科学技術庁職員の身分で、1年間カナダのピールー教授のところに滞在した時のことである。彼は、ハリファックス空港にピールー先生と一緒に僕と家族を迎えに来てくれた。彼は、ピールー先生のところの修士課程の学生であった。好奇心が強く、僕や家族に親切で、1年間友人として付き合ってくれた。僕は、できない英会話を少しでも改善しようという気持ちで、彼と一緒によもやま話をしたり、将棋を教えたり、また僕のアパートで家族と一緒にワインを飲んだりした。僕たちが彼の家を訪問して酒をのんだこともある。彼は結婚していて、学校の先生をしている奥さんがいた。僕の長女も彼と奥さんにはよくなついていた。

1973年8月に僕と家族がカナダから引き揚げるときとほとんど同時に、法律家を目指してニュージーランドに移住するということであった。その後半年くらいたった冬、彼は日本にやって来て、寒い冬を埼玉県上福岡市の借家でひと月ほど過ごしたことがあった。

それからは、会うことはなかった。彼は、バミューダで法律事務所を開いたそうである。毎年暮れにクリスマス・カードを交換する程度の付き合いだったけれども、途切れることもなく40年以上がたった。最初の夫人と離婚したこと、2度目の結婚もうまくいかなかったこと、現在はもう20歳を超えた男の子2人を育てていること、時々南アフリカに行って飛行機を操縦すること、癌にかかったことなどは、手紙やemailで知っている。

僕たちがカナダにいたころは、彼はまだ20歳代で、とても背が高くがっちりした体格の美男子であった。僕たちがいたカナダの、最も東のノバスコシア州にあるダルハウジー大学には、兵役を終えると国から奨学金が出る制度を利用して入学したそうである。彼のいた研究室には3人の大学院生がいて、僕は彼を通じて彼等とも親しくなった。1人は、フランス語圏から来ている学生で、その後古生物発掘の仕事に従事した。もう一人はブリティッシュコロンビア州にある大学で統計生物学を教えていた。JCの研究室の入口には、「アブラムシの家」という張り紙がしてあったので、JCはアブラムシ(ゴキブリではないアブラムシ)の統計学か何かをやっていたのだと思うが、研究の話はあまりしたことがなかった。

このように長い付き合いのある友人は、大学時代の同級生を除くとそう多くない。そうして、年を経るに従って、段々その人数が減って行く。形式だけ保ってきた年賀状の交換は何かのきっかけで途切れる。故人となる人もいる。だから今度JCに会うのも終活の一つであると考えている。5月にはこのつづきが書けるといいが。 (2014年4月7日)

2. JCが来た

5月5日10時前に、僕は現在このあたりでは見かけなくなった古い白のサニーを運転して、家内と一緒に成田空港に着いた。2階のロビーで30分ほど待つと、掲示に10時10分着のロンドンからの飛行機が到着したと出た。それからずいぶん待ったような気がしたが、やっとロンドンからの乗客が三々五々出口に現れるようになった。JCがニコニコ顔で手をふりながら出てきた。40年ぶりの再開である。互いに、肩を抱き合って再会を喜んだ。彼はこんなにと思うほど背が高い。肩を抱き合うと言っても、背丈が違いすぎるので、ちょっと不自然な格好になる。

JCは5月9日の朝まで日本に滞在する予定である。僕たちは、5日午後には作り酒屋を見学し、夜は水戸市内のレストランで歓迎の夕食、6日は偕楽園と千波湖周辺を散策してから、僕の家で夕食、7日は東京に出て浅草あたりを歩く予定を立てた。8日は、大洗方面に行こうと計画を立てていたけれども、その日は疲れていたらしく、結局ホテルやレストランで雑談しているうちに、とうとう僕たちが成田に送って行く時間になってしまった。9日は朝早い飛行機に乗ると言うので、前日から成田市内のホテルに泊まることにしていた。

さて、5日から9日までの全部をここに書くことはできない。7日の浅草紀行だけをかいつまんで書き残しておこう。

僕たちは、9時にホテルで落ち合い、常磐線特急で東京に向かった。雷門の大提灯の下で10時半ごろ娘の文と落合う約束がしてあった。文は、前にも書いたように、カナダの小学校で1年間暮らした時、JCの家族によくなついていた。JC夫人はその頃小学校の先生だったから、子供の扱いに慣れていたのだろう。

浅草仲見世は、僕たち日本人が歩いても大変楽しい所である。扇子や人形、ガラス細工などを売る小さな店が狭い道の両側に数十軒並んでいる。たこ焼きを売る店や、靴屋などもたくさんある。一軒一軒のぞいて歩くと、時間がいくらあっても足りない。日本人だけではなく、中国やタイ、マレーシアなどアジアの人たち、ヨーロッパやアメリカからの観光客も多い。東京駅のホームくらいに人が混んでいるから、僕は何回も「すりに気を付けて!」と言わなければならなかった。実際、ここはすりが多いそうだ。そして浅草寺。人々は、厄除けに、線香に火を付けて壺のように大きな線香立にたてる。その煙を被ると、無病息災なのだそうだ。おみくじを引く。英語で書いたおみくじが用意されている。吉。結婚もいいし、金運もまあまあだそうだ。失せものも現れるという。

JC にとっては、このような日本的で愉快な場所に来たことはないし、今後来ることもないだろう。いくらか風景の写真を撮った。通行人に頼んで、4人の記念写真も撮ってもらった。娘の文は、しきりにブロークンな英語でJC と話している。JCの話だと、英語は悪いけれども、発音は僕よりずっといいということである。小学生のころに覚えたからだろう。仲見世の裏通りで、簡単な昼食を摂って(JCと僕は中華丼を食べる)から、浅草を流れる隅田川を大きなボートで下って、浜松町の海岸まで行くことにした。船乗り場では、ちょっと待ち時間があったので、また4人で写真を取り合ってから、列に並んで船に乗り込んだ。

2階建ての大きなボートである。直前に、韓国のフェリーで大事故があった。300人ほどもの修学旅行生や乗客がなくなったことを思い出す。船乗り場を離れる直前に、JC が「カメラがみつからない」と言い出した。僕たちは、少し前に陸上で写真を撮ったばかりだから、うっかりポケットや鞄にしまいこんでいないかどうか大急ぎで調べた。でも見つからない。急いで下船、写真を撮ったバルコニーに出て、そこらに落としていないかどうか調べたけれども見つからない。切符売場に行って、カメラの落し物が届いていないかを尋てみたけれども、やはり駄目である。売店嬢は、すぐ近くにある交番に行くように勧めるので、そこに届けられていることを期待して行ってみた。交番には4人の警察官がいて、事情を丁寧に聴いてくれたけれども、カメラは届いていないということであった。連絡先の住所などを書類に記入して届けで、連絡を待つことにした。警官の話だと、すりが多く、すられた場合には返ってこないという。これ以上どう仕様もないから、やっぱり遊覧ボートに乗って観光を続けることにした。

そういう状態だったから、陽気な気分はすっかりどこかに行ってしまった。彼がとった日本の記念写真は、もう戻ってこないと悲しそうである。

夕方、山手線で浜松町から有楽町に出て、僕が参加しているセミナーの連中がよく行く飲み屋に入った。そこで酒を飲んで、今日の出来事を忘れることにした。娘の文はよくしゃべるし、よく気がつくから、お客の接待なども任せらる。7時半ごろに切り上げ、9時過ぎには水戸駅に帰り着いた。

浅草寺で引いたおみくじには「失せものは現れる」と書いてあったけれども、今のところカメラは出ていない。僕の撮った写真を送ろうと思い、数日前、駅ビルの電気店でUSBメモリーを買って来た。

楽しみにしていたJCの滞在はあっという間に終わった。今度は、バミューダに来いということである。しかし、年を取ってきたし、ちゃんとした計画が立てられる自信もない。

今年8月7日にコロラド州立大学の知人夫妻が、僕の所にやって来ることになっている。東京や京都を旅行して、11日から一緒に中国渡り、最後に20日から24日まで長春で開かれる中・日・韓草地学会に参加する予定である。目下、旅行の日程とコースを計画中である。僕にはこれまで長期の海外旅行の計画など立てた経験はない。また、僕は間違いを犯しやすいことでは定評がある人だから、計画は立っても、順調に進められるかどうかと考えるたびに眠れなくなる。 (2014年5月28日)

3. JCからの電子郵便

正衛、和子

私は今旅行から帰って来て家にいます。香港はとても蒸し暑く、シンガポールはそれ以上でした。(香港での)仕事は非常に忙しかったです。私はそこでちょっと休みを取りました。日本やイギリスの涼しい天気とはずいぶん違いました。

シンガポールとバミューダの間には、実に12の時間帯があります。それで、今ひどい時差ボケに悩まされています!

日本への入国ゲートから出てきたら、すぐにあなた方が見つかりました。お二人は(40年前と)全く変わっていません。私同様に、ただちょっと頭が白くなっただけです。

私は、あなた方と、そしてちょっと素晴らしい驚きだったのですが文に会えて、日本で一番素敵な時間を過ごせました。私は日本酒の醸造所(明利酒類株式会社・博物館)を見学し、冷酒をいただきましたが、とても楽しく、こういうことはこれまで一度もありませんでした。私たちが写真を撮った醸造所の外に立っていたのは徳川さん(光圀のザレ人形)ですか?湖の周りの水戸公園の中の偕楽園を散歩しました。この庭園はとても立派です。日本三大庭園の一つなのですね。また、私はあなたの大学、茨城大学に行きました。大学は、非常に土地がうまく使われていると思いました。そして、散歩をし、コーヒーをいただきました。

(成田空港に行く途中)高速道路の近くの市場に立寄れたのは、とても楽しかったです。鋒田の立派なメロンがありました。東京で行った神社(神社ではなく浅草寺)は面白かったです。遊覧船に乗る前にその近くで食べた小さな食堂も楽しかったです。

私をもてなし、家族のようにしてくれました。本当に素敵な日本訪問できました。あなた方お二人に会え、一緒に過ごせて本当によかったと思っています。(日本語で)本当にありがとう。本当に長い間、あなた方には会っていませんでした。

私はもう一度会えたらと思っています。できれば、次はバミューダで。大歓迎です。

写真はいくつかは回復できました(スマートホンから)。私のコンピュータに移したので、いくつかを添付します。子供たちのを2枚と、クリス・ピールーの住所を一緒に入れておきます。彼女は90歳だと思います。香港で、新しいカメラを買いました。日本でのカメラのことは心配しないでください。警察との交渉を助けてくれてありがとうございました。

京成ホテルの支配人が水戸城について翻訳してくれました。おそらくあなたが頼んでくれたのだと思いますが。

あなた方に、すべてがうまくいきますように

ジョン

(注)

1) ( )内は、翻訳時に補足した文節。

2) ちょうど5月6日の代休日で、大学は構内には入れたけれども、建物に入ることはできなかった。JCには僕のいた大学は小さな大学だと言っていたのですが、建物の数や配置を見て結構大きくて、きれいな大学だとの印象をもったようだ。

3) 浅草寺では、賽銭を投げたり、おみくじをひいたりした。また線香の煙を冠って、健康祈願もした。昼食は、小さなあまりきれいでない食堂で、中華どんぶりを食べた。浅草では、Jは船乗り場でカメラをなくしてしまった。

4) クリス・ピールー(Chris Pielou)は、僕がカナダの大学にいたときの教授。数理生態学が専門。1924年生れの女性科学者。僕は、彼女に会う前から本や論文で勉強していたけれども、彼女の研究がその後の僕の研究に大きな影響を与えたと思っている。15年くらい前までは、クリスマス・カードの交換をしていたけれども、その後手紙が来なくなり、住所も分からなくなっていた。EC Pielou, 335 Pritchard Rd, Comox, BC V9M 2Y8, Canada;電話:250-339-1780. 早速、Jと一緒に撮った写真を送ってみます。

5) 水戸城には、かっては小さな天守閣と櫓があったそうです。その図面が形成ホテルのロビーに貼ってあります。 (2014年6月10日)