川俣町での牧草調査 元茨城学習センター長 塩見正衛
投稿日: 2012/06/14 16:38:59
「(5月) 2日の天気予報を見ると、午前中の降水確率が30%、午後は80%にもなっているから、(2日の) 福島行きは中止しようか」と、寺島さんからemailが来た。僕らの調査は土壌も扱うから、雨が降っては仕事ができない。「中止して、調査日を変更しよう」というのが僕の返事だったけれども、もう一人の共同研究者の「福田さんが『行こう』と言うから」ということで、結局、決行することになった。2日は朝6時前に予約しておいタクシーで水戸駅へ。友部、小山、宇都宮で乗り換えて、福島駅には9時14分に到着した。寺島さんと福田さんも同じ列車だったらしくすぐ出会えた。寺島さんは20リットル入りのポリタンク2個、土壌採集用の道具、篩や鋏など大きな荷物を持ってきている。駅前でレンタカーを借りて、まず川俣町役場へ。ここで、僕等が調査している草地所有者の佐藤さん(酪農家、県会議員)に会う約束になっていた。昨年の研究結果を報告して、今年も草地の使用をお願いするためである。
佐藤さんの話。川俣町では膨大な面積の水田、畑、草地、それに山林が放射性物質に汚染されていて、5000 Bq/kg(土壌)を超えているところが多い。表土15 cmを削っただけでは除染の基準に達しない農地も多いそうだ。30 cmの土壌を削り取ってやっと基準以下になるというが、これは技術的に不可能である。30 cmは言うに及ばず、15 cmのはぎとりでも、作物が栽培可能な肥沃な土壌は全部はぎとられてしまうからである。
除染がすぐにはできず、作物の栽培が不可能ということになると、地元の人は「どうして生活していくのか」。とにかく、川俣町で生活していくための、佐藤さんの話は次のようなものである。イネやソルガムなど、生産量が高い作物を栽培して、バイオエネルギーを生産すること。すでに、いくつかの大学や企業が、この企画にアイデアを寄せているそうだ。問題は、バイオエネルギーをとったあとの残滓には放射性セシウムが濃縮されているはずだから、それをどのように処理するかである。セシウムは約650度に熱すると気化するそうで、回収しやすくなるという。しかし、気化したセシウムを回収する技術ができるのは2年後だそうだ。とにかく、地元の人たちは真剣にいろいろ考えていて、そのレベルは僕等が考えているレベルをはるかに超えている。ちなみに、佐藤さんは現在も、隣町にある畜舎で200頭の乳牛を飼っているけれども、自給飼料の生産ができないから、飼料はすべて海外からの輸入に頼っているとのことである。
佐藤さんとの相談に時間がかかったので、草地に着いたはちょうど昼ごろになってしまった。急いで弁当を掻き込んで、すぐに仕事にかかった。50 cm×50 cmの金枠を3か所において、まだ10 cmあまりしか成長していないオーチャードグラスと白クローバの混じった牧草を、地上3 cm以下、3 cm以上、枯葉+リター、深さ5cmまでの土壌、その深さまでの土壌に含まれる根に分けて採集した。最後に根の土壌を川俣町から持ってきた40リットルの水で洗って、6時半ごろに仕事は終了した。すでに周囲は薄暗くなっていた。夕方から小雨がパラついていたけれども、作業中ひどく濡れるほどではなかった。この日採集した植物と土壌は、神戸大学に送って、精密な測定器で放射性元素から出ているガンマ線量を測ることになっている。昨年11月に行った調査では、この草地の土壌の放射線量は15000 Bq/(乾燥土壌kg)を超えていた。
調査地から福島駅までは自動車で約1時間かかる。しばらく行くとすぐに水田やビニールハウス、それに暗くなり始めた山際には農家が点々と見える。しかし、どの家にも明かりはついていない。そこは誰も住んでいないのだ。水田は昨年から放棄されているので、1m以上もある枯れ草が一面に立っている。ビニールハウスは破れて、中にはすでに緑の草が見える。昔の西部劇に出てきた廃墟の町ようである。誰もいない町には街灯だけが点いていた。
僕の帰路は乗り換えが多く、小山では1時間以上待たされた。水戸駅に着いたのは11時頃で、とても疲れた。