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水戸・吉田古墳 発掘調査見学記

 

      古代の先人を偲ぶ                   2010/12/22

                           放送大学6回生     矢部 時夫

 国指定文化財 (大正11年)

吉田古墳(水戸) 発掘調査見学記

去る11月28日 水戸市教育委員会により2005年から続けられていた吉田古墳の発掘調査現地説明会が行われた。発見は古く1914年で横穴式石室の壁の部分には力強いタッチの線刻壁画が施されている。

 今回は38年前の調査の後をうけて、当時一旦 砂で埋め戻された石室の砂を取り除き再調査と周辺整備の為の発掘で一般公開後 又 埋め戻されるとのこと。今までの出土品には大正三年に 勾玉、金環、直刀,等があり1922年(大正11年)に国指定文化財となっている。見学にきていた地元の古老の話では“子供時代には石室は露出しておりよく子供の 遊び場となっていた“との事。 確かに石室の一角には落書と思われる文字も見受けられた。

 その昔この吉田台地は眼下に現在の千波湖が広がり那珂川や周辺の川とも繋がって洪水ともなると被害は住民を苦しめたに違いない。吉田の地名も元来 蘆(葦)田と呼ばれ 周辺は蘆の繁茂する土地柄から名づけられたとゆうが同時に水鳥、漁、獣の捕獲などには最適で農耕文化が栄えヤマト王権の確立以前から地方豪族を中心に古代人の豊かな生活があつたと考えられる。

 今回の発掘で特に注目されたのは 長い風雪に耐え外見は小さい古墳と見られていたが周溝に八角形又は 多角形墳が推定される意外に大きな古墳の可能性が出てきたからである。

 偶々2010年9月に奈良、明日香村の牽午子塚(けんごしづか)古墳が天皇の墳墓である八角形墳で被葬者は大化の改新で知られる中大兄皇子(後の天智天皇)の母に当たる斉明天皇ではないかとの説が有力となって考古学会から注目され論議を呼んでいるからである。吉田古墳も大和朝廷から派遣された縁者か有力豪族が都風を真似て造られたか何れにしても この古墳が建造された時代は7世紀中頃、飛鳥時代とされる。

 同じ水戸市内には仲(那珂)国造の墳墓とされる5世紀中頃に作られた愛宕山古墳がある。(国指定史跡)

 線刻壁画のある横穴式古墳では 常陸太田市(旧金砂郷町)に猫渕古墳があり4キロ程 離れた同市島町には久自(慈)国造の墓と言われる梵天山古墳(県内では石岡市の 舟塚山古墳に次ぐ第二位の規模)、ひたちなか市中根に は東日本随一の装飾壁画を持つ 虎塚古墳がある。

 何れも吉田古墳築造の前後の時代に奈良の都から 遠く離れたこの地で逞しく、生きた人々の眠る墓と考えられるが九州や畿内から古墳築造のプランナーが特殊な築造技術の伝承を今日のような通信手段の無い時代どうして会得したのだろうか

 豪族や部族相互の交流は?力関係は?衣食住の確保は?と次々と疑問が湧く。古代の人人の社会、文化、についての解明は現代に生きる我々に多くのことを示唆して呉れるに違いない。


下記の画像は水戸市教育委員会が作成した現地説明会資料を同委員会の許可を頂き掲示した。文章の一部も参考にさせていただいた。

画像はクリックすると拡大表示されます。

 図1:平成18年度実施の第3次調査
 図2:石室奥壁壁画
 図3:過去の調査で確認された吉田古墳の姿
 図4:過去の調査で確認された吉田古墳の姿

1.吉田古墳の特徴

(1)横穴式石室の奥壁に線刻壁画を持つ多角形墳:八角形に近いが未発掘部分もあり形も歪んでいるので断定は出来ない。

(2)作られた年代:7世紀中ごろ、古墳時代終末期。1,300~1,400年程前 (虎塚古墳よりはやや新しい)

(3)被葬者は不明である。

(4)副葬品:長い間石室が開口したままで盗掘も受けており、副葬品と思われる出土品はわずかに銀環・鉄鏃などのみである。


2.吉田古墳の石室構造

(1)半地下式の単室構造の横穴式石室:石室への入り口(墓道)→羨道(せんどう)→遺骸を納める玄室(げんしつ)から構成されている。

(2)壁と天井は一枚石を組み合わせて構成

(3)玄室と羨道の区切り:玄室と羨道の間の足元には梱石(しきみ石)とよばれる横長で平らな石が置かれている。

(4)石室を構成する石材:第三紀水戸層と呼ばれる灰色凝灰質シルト岩(泥岩)。

◆ コメント『吉田古墳と八角墳』 前島 寿子 ◆

 矢部さんのご報告にも有りますように、今回の発掘により吉田古墳は、横穴式石室に線刻壁画がされた想定八角墳で、国内でも珍しい貴重な存在のようです。線刻壁画は、結構九州から北陸、関西、関東と全国に見られるようですが、八角墳は、曾ては天皇だけに限定された古墳であると教えられました。しかし発掘の進歩とともに畿内以外の存在も明らかになり全国では18余有ると聞きます。それでも古墳全体の数からは少ない数です。八角墳の天皇陵は、舒明陵(段ノ塚古墳)、天智陵(御廟野古墳)、そして天武、持統合葬陵(野口王墓古墳)等があります。草壁皇子の陵もそうだったと思います。今回の吉田古墳調査発表の後、いみじくも奈良県明日香村が129日、牽牛子塚古墳の発掘成果を発表し、斉明天皇の古墳ではないかとの説が出てきました。発掘の結果、現況が、日本書紀6672月の条に『斉明天皇と人間皇女(娘)を合葬した墓の前に、中大兄皇子の娘大田皇女を埋葬した』と記されているのと一致した、と報告されたのです。牽牛子塚古墳もまた八角墳です。八角墳は天皇限定の古墳なのか、地方の八角墳の意味する所はなにか、天皇系との関わりはないか、など吉田古墳に対しても是から夢が広がっていきそうで楽しみです。              






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