阿修羅のまなざし 1. はじめに 平城京遷都の710年から平安京遷都の794年の85年間を奈良時代という。美術史では奈良時代を天平時代ともいう。藤原不比等が権勢を極め、藤原氏の氏寺である興福寺が平城京遷都と期を同じくして創建された。
2. 興福寺西金堂 興福寺は1300年の星霜に耐えて法灯を守って来たが天平時代の建造物は皆無である。天平時代の仏像は唯一、 十大弟子と八部衆立像(全て国宝)が奇跡的に遺った。
西金堂は治承四年(1180)平重衡の兵火に遭遇し、西金堂の本尊釈迦如来坐像と両脇侍は焼失した。しかし十大弟子・八部衆立像は奇跡的に運び出されて無事であった。 元歴元年(1184)に西金堂は再建立され、文治二年(1186)に本尊釈迦如来坐像(国重文)[6]も再造立された。建仁二年(1202)には両脇侍の薬王・薬上菩薩立像(国重文)[7]も再造立されて西金堂は復興した。 西金堂の仏像の復興には奈良仏師・慶派の寄与するところが大きい。平安末期から奈良に活動拠点を置く慶派は京都に拠点を置く仏師集団の院派や円派とは一線を画し、奈良時代から平安初期の天平文化の仏像を見ながら成長してきた。人間の心を深く掘り下げ、おおらかで堂々とした像の多い天平仏を見てきた慶派仏師達は、治承四年の平重衡の兵火で灰燼に帰した天平仏の復興に力を発揮したのである。
現在は「 十大弟子・八部衆立像」や本尊の釈迦如来仏頭は東金堂の北隣の国宝館(元食堂)に安置されている。なお、薬王・薬上菩薩立像は仮中金堂に安置されており、建立中の中金堂が完成すれば、中金堂に移ることになる。 今回の阿修羅展には今は礎石のみ残る西金堂のかっての御仏である、釈迦如来仏頭、両脇侍の薬王・薬上菩薩、十大弟子・八部衆立像が勢揃いした。国宝の金鼓(華原磬)も出展され、阿修羅展で「釈迦集会」の群像を拝観[8]できる。しかし、八部衆は8躯すべて現存するが、十大弟子は4躯は消失し6躯のみである。
3. 阿修羅像 仏教の諸尊には「如来・菩薩・明王・天」の4つの種類があり、天は古代インドの神々が仏教の中に取り込まれ、仏法の守護者となった異形の神々の総称である。従って、阿修羅を含めた八部衆は「天」である。阿修羅のみは板金剛(いたこんごう)を履き、他の武将は靴を履いて洲浜座(すはまざ)に立つ。尊格は低い。
左から、迦楼羅(かるら)・鳩槃荼(くばんだ)・畢婆迦羅(ひばから)・阿修羅(あしゅら) ・ 緊那羅(きんなら)・乾闥婆(けんだつば)・沙羯羅(さから)。五部浄(ごぶじょう)は左上。
会津八一(1881-1956)は阿修羅を次のように歌った。 けふもまた いくたりたちて なげきけむ あじゆらがまゆの あさきひかげに [9] ゆくりなき もののおもひに かかげたる うでさへそらに わすれたつらし [10]
3.1 阿修羅の形 仏像はすべからく経典に従う。「 十大弟子・八部衆立像」は『金光明最勝王経』に従って造形された。阿修羅像も三面六臂で腕は細く形はほぼ円筒形で人間の腕のようななまめかしさを持たない。 雲岡石窟第10窟の窟門外側の阿修羅像などを参照すると、興福寺の阿修羅像も高く上げた両腕の左手に「日輪」、右手に「月輪」を捧げていたことは容易に想像できる。一番下の両腕は現在は合掌しているが、これは後補である。明治41年の写真には右手首は失われているが、左手の掌は合掌する形ではない。右手で宝輪を持ち、左掌は宝輪を脇から支えていたはずである。 興福寺の阿修羅は三面の異なる表情をしており、内観と懺悔の形をとっているように見える。「釈迦集会」で釈迦の説法を聞いているとき、波羅門の叩く金鼓の妙なる音にふと我に返り、帝釈天との戦いに明け暮れて殺戮を繰返したことを内観した右側の顔。そして左側の下唇をかんだ表情は懺悔をしているのではないだろうか。中央の顔の表情は、釈迦の教えに浄化されて素直な心を取り戻した表情である。眉根を寄せて何かを悲しむ少女のような顔貌は瞼、鼻、唇、頬などから深い憂いを帯びている。厳しくも美しい阿修羅像の姿に1300年間も多くの人々は共鳴するのであろう。
3.2 懺悔の祈り 阿修羅像
阿修羅は自らを観察(内観)し、かつ懺悔し、清い心が戻ってきたために、悩みも深くなったものと思う。 天平初期の阿修羅像と東大寺・広目天像は前者が脱活乾漆造、後者が塑造で製法こそ異なるが、共に人間的感情の表現を繊細に表現することに成功した、天平初期の優作。
3.3 阿修羅像を作った仏師 仏師のリーダは仏師・将軍万福(しょうぐんまんぷく)、彩色は画師・秦牛養(はたのうしかい)といわれている。白村江の戦(663)の後に百済からの渡来人である。橘三千代の一周忌の供養のために一年間という限られた期間で釈迦三尊像・八部衆像・十大弟子像など28躯の仏像を作った。
3.4 阿修羅像の体の構造 八部衆や十大弟子像は「脱活乾漆造(だつかつかんしつつくり)」は奈良時代特有の仏像制作の技法で作られている。心木を入れて骨格とし、粘土で原型を作る。麻布を漆で貼り重ねた後、中の粘土を取り除き、木屑などを混ぜ合わせた「木屎漆(こくそうるし)」で表面を調整してから、彩色や箔で仕上げる技法である。 八部衆の一つ、五分浄像は胸から下が破損して無い。破損部を見ると脱活乾漆造の構造がよくわかる。漆と麻布で固めた表面は大変薄く、中は空洞なので非常に軽量である。 八部衆の平均重量は台座を含めても22.8kg、最大は緊那羅で28kg、阿修羅は25.4kgである。十大弟子の平均重量は23.3kgなので八部衆と大差はない。 従って、火事の時に比較的簡単に避難させることができ、1300年間保存されてきた。十大弟子が6躯しか残っていないが、江戸時代には10躯揃っていたらしい。失った4躯は火事で焼損したのではなく明治の廃仏毀釈[11]の騒動の中で失ったものである。
3.5 阿修羅像のルーツ インドには阿修羅像は遺っていない。中国や朝鮮半島の阿修羅像は経典に記された如く左手に日輪、右手に月輪を掲げてたものがあり、明確に阿修羅像のルーツである。
3.6 阿修羅像の人気度 美術系の大学の新入生に好きな仏像を上げさせると、毎年、中宮寺の菩薩半跏像と興福寺の阿修羅像が1位の座を争うという。阿修羅は人気度抜群である。 ところが、従来から阿修羅の人気は必ずしも1位ではなかった。たとえば、岡倉天心の東京美術学校での仏教美術の授業では阿修羅像は取り上げられなかった。興福寺の仏像は国宝指定されているものが多い。しかし、阿修羅像の国宝指定は、北円堂の無着・世親立像[12]より遅く、十大弟子像よりも後になっている。そこで、和辻哲郎と水野敬三郎の阿修羅像に対する評価を見てみる。
(1)和辻哲郎:『古寺巡礼』(岩波書店) 和辻哲郎は大正7年に奈良の寺々を歩き、名著『古寺巡礼』をまとめた。その中で奈良国立博物館[13]を訪れ、中央の展示室に聖林寺の十一面観音立像と法隆寺の百済観音立像に邂逅した。哲郎は天平一の仏像と感激している。そして、哲郎は二尊の脇に興福寺の八部衆や十大弟子像が出展されていることに気が付いた。『古寺巡礼』から八部衆や十大弟子像の記述を抜粋して転記する。 「興福寺の諸作は健陀羅国人問答師[14]の作と伝えられている。その真偽はとにかくとして、あの十大弟子や八部衆が同一人の手になったことは疑うべくもない。その作家は恐らく非常な才人であった。そうして技巧の達人であった。けれどもその巧妙な写実の手腕は、不幸にも深さを伴っていなかった。従ってその作品はうまいけれども小さい。 この作家の長所は、幽玄な幻像を結晶させることにではなく、むしろ写実の警抜さに、或いは写実をつきぬけて鮮やかな類型を造り出しているところに、みとめられなくてはならぬ。釈迦の弟子とか龍王とかといふことを離れて、ただ単に僧侶或いは武人の風俗描写として見るならば、これらの諸作は得難い逸品である。殊に面相の自由自在な造り方、――ある表情もしくは特徴を鋭く捕らえて、しかも誇張に流れない、巧妙な技巧と微妙な手練、―― それは確かに人を驚嘆せしむる。龍王の顔に於いて特にこの感が深い。 ここに看取せられるのは現実主義的な作者の気稟である。それによって判ずれば、この作者がシナに於いて技を練ったガンダーラ人であるということは必ずしもあり得ぬことではない。しかしわれわれの見聞した限りでは、この作に酷似する作品はシナにも西域にも見出されない。またあの器用さ、鋭さ、愛らしさ、――それは茫漠たる大陸の気分を思はせるよりも、むしろ芸術的にまとまった島国の自然を思はせる。従ってこの作者が我国の生み出した特異な芸術家であったということも、許されぬ想像ではない。興味をこの想像に向ければ、問答師なる一つの名は愛すべく珍重すべき謎となるであろう。」 和辻哲郎は『その作家は恐らく非常な才人であった。そうして技巧の達人であった。けれどもその巧妙な写実の手腕は、不幸にも深さを伴っていなかった。従ってその作品はうまいけれども小さい。』と評価している。八部衆の代表を阿修羅ではなく「龍王」としているのも注目すべきである。「龍王」とは大蛇を体に巻き付けた「沙羯羅」である。 (2)水野敬三郎[15]:『六大寺大観 第七巻 興福寺一』(岩波書店) 「十大弟子立像、八部衆立像は天平彫刻の一典型を示す乾漆造りの傑作として名高いもので、日本彫刻史上、古典様式完成への道程における天平の前半期という時点を明確に物語る遺品。中でも清純な少年らしい風貌の阿修羅は、その顔つきの人間らしさと同時に、全体として超人間的な崇高さを与えられている。」 現在の仏教美術界では水野敬三郎の解説が定説となっている。
4.十大弟子像 十大弟子像も八部衆像と同時に天平六年(734)橘三千代の1周忌の供養のため光明皇后が願主、仏師・将軍万福により造立された。下記写真の左から「説法第一」の富楼那(ふるな)、「論議第一」の理論家・迦旃延(かせんえん)、「神通第一」のリーダー・目ケン連(もくけんれん)、「智慧第一」のリーダー・舎利弗(しゃりほつ)、「戒行第一」の羅ゴ羅(らごら)、「解空第一」の須菩提(すぼだい)である。羅ゴ羅は釈迦の実子である。 「頭陀第一」の長老・大伽葉(だいかしょう)、「天眼第一」の阿那律(あなりつ)、「持律第一」の優婆離(うばり)、「多聞第一」の阿難陀(あなんだ)の4体は明治初期の廃仏毀釈の嵐の中に消えた。 大伽葉は釈迦如来が入滅後、長老として師の教えを守るために五百人の羅漢を結集して経典にまとめた。阿難陀と共に釈迦如来の脇侍になることもある。 脱活乾漆造で、いずれも髪を剃り、袈裟(けさ)を着て、羅ゴ羅以外は板金剛(いたこんごう)を履き、洲浜座(すはまざ)に両足をそろえて直立する。羅ゴ羅は沓を履いている。十大弟子はインド人なのに日本人の顔立ちをしている。
失われた4像を棟方志功(1903- 1975)の釈迦十大弟子の版画に見る。
5.おわりに 阿修羅展の主役は申すまでもなく阿修羅像である。そして、もう一人の主役は光明皇后であろう。光明皇后は仏教に篤く帰依し、留学僧・道慈が初めて日本にもたらした『金光明最勝王経』に大いに感銘し、「光明」という名もこの教典からとった。母・橘三千代の一周忌[16]の供養の為に1年間で西金堂を建立し28体の仏像を造立した。以下は私の想像である。
28体の仏像の設計図は『金光明最勝王経』である。当時、その設計図を熟知しているのは道慈のみであり、その設計図どおりに仏像を作り上げる仏師は将軍万福のみであった。光明皇后と道慈と将軍万福、身分の差は大きいが、1年間という短期間で28体の仏像を造立するべく光明皇后は2人に詳細な要望を伝え、2人から情報を得るため綿密な打ち合わせが必要であった。そして、将軍万福は阿修羅に光明皇后の面影を刷り込んで行った。 光明皇后は727年に基王(もといおう)を生むが1年後に基王は夭折した。引き続き母・橘三千代を亡くす。実家の藤原家がらみでは長屋王の変、藤原広嗣の乱、藤原四兄弟の死と心労が絶えない。法華寺や新薬師寺の開基の栄光の女性・光明皇后も悩みは深い。 光明皇后のふと曇るまなざしは阿修羅の憂いに満ちた眉根である。
6.参考文献 (1)後藤道雄先生資料「興福寺阿修羅像と金光明最勝王経」 (2)「国宝 阿修羅展」図録(2,500\) (3)「国宝 阿修羅展」のすべてを楽しむ公式ガイドブック(1,300\) (4)佐藤康宏「日本美術史」(放送大学 印刷教材) (5)「阿修羅を極める」(小学館、1,400\) (6)芸術新潮2009年3月号(新潮社、1,400\) (7)webページ:http://yamaguti.ddo.jp/show?page=357[1] 仏教公伝は538年という説もある。 [2] 飛鳥に蘇我氏によって創建された我国最初の本格寺院の法興寺が、平城京遷都とともに奈良に移ってきた。 [3] 西金堂は天平六年(734)に不比等の娘・光明皇后が母橘三千代の一周忌(天平六年一月十一日)の供養の為に建立した。熱心な阿弥陀如来の信奉者の橘三千代や光明皇后が西金堂の本尊を釈迦如来にした理由は、女人も男子に転じて成仏できると説く『金光明最勝王経』に基づき作られたためである。 [4] 大宝2年(702)唐に渡った留学僧・道慈は17年間、唐の最先端の仏教を研鑽し、養老2年(718)に帰朝。『金光明最勝王経』を初めて日本にもたらし奈良時代の仏教の発展に画期的な影響を与えた。 [5] 鎌倉時代の制作。阿修羅は釈迦に向かって左上に赤い色で描かれている。京都国立博物館に保管。 [6] 本尊釈迦如来坐像の仏師は最近、運慶(12世紀半ば-1224)であることが判明した。 [7] 両脇侍の薬王・薬上菩薩立像は奈良仏師・慶派の作であるが仏師名は定かではない。 [8] 八部衆の鳩槃荼と畢婆釈迦羅及び十大弟子の羅 羅の3躯は3月31日~4月19日間だけの展示。
[9] 今日もまた何人の人が淡い光の当たる阿修羅の眉を見上げながら、その光の中に立って自らも深い思いに嘆いたであろうか [10] 何気なき物思いに、阿修羅の像は掲げた腕までも空に置き忘れたようにポーと立っている [11] 江戸時代末期、奈良は平田篤胤の復古神道が最も盛んで、ひととき興福寺は廃寺となった。 [12] 運慶の代表作 [13] 戦前は奈良帝室博物館が正式な名称。 [14] 問答師というのは現在では間違いといえる。正しくは、仏師・将軍万福である。 [15] 水野敬三郎:東京芸術大学名誉教授 [16] 橘三千代の一周忌・天平六年(734)一月十一日:阿修羅展の“今日のその時”である。 |